クリスマスに想う-真珠湾・東日本大震災・未来の希望
学長 木村利人
1941年12月8日、真珠湾攻撃による日米開戦のニュースが伝わった時、恵泉女学園に留学していた二世の学生たちをはじめ学生一同は大きなショックと悲しみを覚え、教室は静まり、泣いた学生もいたという。
恵泉女学園創立者・河井道先生は今から70年前のクリスマスにあたって「今回は、太平洋にての戦争が勃発したのが12月であるゆえか、平和の君の生まれ給いし期節が今月でなければよいと思える。(中略)ついには、主により世界平和が来るとの約束を思い、今年もこの非常時に謹んで天使の歌を心より歌おうではないか」と未来の平和への希望を語り「我らの中には、心のうちに苦悩、不安の日を送る者あり、利己主義で自他を不幸に陥れる者あり、何事にも無関心の麻痺症あり、いずれも大きな精神的の戦争をしているのであるが、クリスマスはこれらに対しても救いと平和を約束される日であるから、心より喜び祝うは当然である」と述べられた(恵泉・巻頭言、1941年12月号)。
なお、この巻頭言執筆の責任を問われ、河井先生は憲兵隊、警察署、文部省に召喚され、この号は全て没収された。その後、学園にはしばしば「特高(主として言論・思想・政治を取り締まるための特別高等警察)」が検閲のために来校していた。戦時中に、河井先生は警察に出頭を求められ、留置場で数日間厳しい取り調べを受けられたこともあった。それは、恵泉女学園の生徒が戦地の兵士に送った慰問袋(軍人を慰問するために日用品や手紙などを入れて国内から送る袋)の中に「お互いに殺しあうことを早く止めて下さい」と書いてあった責任を問われたからだった。しかし、河井先生は、決してこの生徒の言葉を否定しないで、生徒を守り、自らの平和の意思を貫いた。
当時の多くの人々は、日本の「戦争」が正しいと信じ、日本の勝利を願って、「戦争」に勝ち抜くための、重苦しい生き方を強いられていた。私も、小学校では天皇陛下の写真に最敬礼し、「教育勅語」と「軍人勅諭」を暗記させられた。そして、現人神の天皇陛下の指揮の下での世界最強の陸海空軍により、戦争には必ず勝利すると教えられ、それを堅く信じていた。にもかかわらず日本が負けたのは、本当に大きなショックだった。
この信じられない「敗戦」という事実により、子ども心に、学校の先生も、父母も、勿論、天皇陛下も何もかも信じられなくなってしまった。しかも、正義の聖戦をしていたはずの、日本の軍隊が中国をはじめ、アジアの各地で、その国の人々を巻き込んだ戦争により多くの尊いいのちを奪ったことを知った。
今、実際に東日本大震災の被災地を訪れ、目に見える家屋が殆ど壊滅した瓦礫の原を目の当たりにして、あの敗戦直後に私が見た東京の焼け野原の光景と重なリ、私は息をのんだ。
東日本大震災の状況、特に原発への政府の対応には怒りを覚えざるを得なかった。まるで今から70年前の私の少年時代に見聞きし、体験した「大本営発表」そのものだったからだ。真珠湾から敗戦に至るまで、情報のコントロールを官・民・産・情(マスメディア)一体となって行われたことが繰り返されたからなのであった。
国の内外で大きな惨害をもたらした日本の過去と現在の状況の正確な歴史的背景と事実をしっかりと把握し、日本中心の偏狭な世界観とは訣別し、世界の歴史の動向の中で共有される価値観、すなわち国連の「世界人権宣言」等の国際的な規範に沿って、日本の過去と現在を批判的に分析し、理解し、反省した上でこそ、未来への平和と希望の構築のための新しい協働が可能になる。
「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」とマタイによる福音書(5章9節)には書かれてある。河井先生の「国際・平和」教育の精神を展開する後継者として「神による平和」の実現のために、未来への希望に生きる者となりたい。