現在ウェストミンスターは特別区としてロンドンの一部となっているが、元来は異なる都市であった。「シティ」と呼ばれて金融街の代名詞のように用いられている旧市街のロンドン市(the City of London)とは別に、テムズ川を少し遡ったところにウェストミンスター市(the City of Westminster)はあった。「ウェストミンスター」という地名は「西方の修道院」 (West Monastery) の省略形であるとも言われる。ロンドン市にセント・ポール寺院があるように、ここにはウェストミンスター寺院が聳える。
ウェストミンスターの地は王室とゆかりが深い。ウェストミンスター寺院では、1066年のハロルド王即位以来、歴代イングランド国王の戴冠式が挙行されてきた。この地に宮殿が建てられたのは11世紀末のことであり、以来1512年に火災に見舞われるまで、イングランド王の主たる住居として用いられた。ウェストミンスター宮殿は火災後も宮殿の名を留めたが、国王がホワイトホール宮殿へと移り住んでからは、もっぱら議会および法廷として用いられた。
ウェストミンスター宮殿内で開かれた議会の歴史は古い。宮殿に人びとを呼び寄せて意見を聞いたのが、イギリス議会の始まりである。名誉革命(1688-9年)後には議会の活動量が増大して宮殿も手狭となったが、19世紀初頭までは増改築を繰り返して凌いだ。ところが、1834年、ウェストミンスター宮殿は再び火災に見舞われた。第1次選挙法が成立したばかりの時期である。当時人気の新古典主義は革命と共和制の匂いがするという理由で避けられ、「建物のスタイルはゴシックもしくはエリザベス朝のどちらか」という方針に基づいて、再建案が公募された。97もの案からチャールズ・バリー(1795-1860)のものが採用され、今日見るゴシック様式の議事堂が完成した。有名な「ビッグベン」もこのとき誕生している。
この時期、世界に先駆けて産業革命を遂げたイギリスは「文明化」の真っ最中であったが、時代を逆行するかのように中世への憧憬も高まって、いわゆる「ゴシック・リヴァイヴァル」が起こった。「ゴシック」とは13世紀から14世紀にかけて建てられた大聖堂などに特徴的な様式であり、「ゴシック・リヴァイヴァル」とは、こうした近代以前の様式を復興しようとする運動であった。ウェストミンスター宮殿の傍らに立つウェストミンスター寺院も、13世紀末に、フランスのアミアンやランスの大聖堂から影響を受けて大改造が施されていたから、寺院と宮殿はお揃いのゴシック様式になった。
ウェストミンスター宮殿には、いま一度災難が待ち受けていた。1941年、ドイツ軍の空爆によって大破したのである。もはや「ゴシック・リヴァイヴァル」の時代でもなかったが、議事堂はほぼ元通りの姿でよみがえった。また、議場に全議員を収容するだけの広さがないという重大な欠陥もそのままにされた。「議場が全議員を収容できるほど大きいと、大抵の討論はほとんど空っぽか、少なくとも半分位しか議員がいない、だらけた議場で行われることになる」とは、当時の首相ウィンストン・チャーチルの弁であった。19世紀半ば以降はイギリス議会制の黄金時代であったから、建物の方もすでに伝統の一部と化していたのである。ウェストミンスター宮殿は、1987年に世界遺産に指定された。
高濱俊幸(イギリス思想史)