カリブ海の難攻不落要塞都市(アメリカ合衆国、サン・ファンの歴史地区)

2013年09月11日

コロンブスが「発見」した折に、緑豊かで果実が実るその豊かさに叫んだ、プエルト(港)・リコ(豊か)にその名が由来するという、プエルト・リコ(現在アメリカの準州)。
スペイン植民地時代を象徴する都市、サン・ファン歴史地区はスペインが総力挙げて築いた港湾・要塞都市である。世界遺産に登録された植民都市のなかでは、先住民の遺産をその都市機能、空間利用に引き継いだ都市が多い。しかしこの植民都市はそれらとは異なり、コロンブス以前の足跡がたどれない。ヨーロッパ人到達のもたらした影響力の大きさを残す負の遺産である。

プエルト・リコは新大陸の最も東端に位置する。新大陸の銀、砂糖、タバコなどの集積地であり、アフリカからの奴隷労働で成り立つ、スペインにとってキューバと並ぶ本国に向かう拠点のひとつであった。イギリスやフランスの振興海洋国家の攻撃、フランシス・ドレーク卿(奪った富をイギリスに持ち帰った功績で卿の称号が海賊に与えられている。)などの海賊の撃退から自らの富をまもる要塞が1530年から作られその建設は18世紀にまで及んだ。海面からの高さが40メートルにも及ぶモーロ要塞はハバナ(世界遺産、1982年、キューバ)や、サント・ドミンゴ(世界遺産、1990年、ドミニカ共和国)と同様に16世紀後半からヌエバ・エスパーニャ副王領からの収益で要塞化された。さらに、高さ15メートルの城壁が都市を囲んだ。当時の建築技術の粋をもって建設されたとされる。城壁の中には初代総督、ポンセ・デ・レオンが眠るサン・ファン大聖堂(1521年、のちに再建)、白い壁の輝くサン・ホセ聖堂(1532年)をはじめ、パステルカラーの外壁、窓枠や手すりの装飾にスペイン色を見せる建造物が残る。

守り抜いたこの島も「なんとも楽でうまくいった戦争」(当時の駐英大使、ジョン・ヘイの言葉)とアメリカが呼んだ米西戦争(1898年)でスペインは敗北し、戦争終結の条約により勝利したアメリカ合衆国の領土となった。1902年に独立を果たしたキューバとは異なり、独立派、現状維持派、州昇格派の三つ巴でいまもアメリカとの関係がゆがむ。この地の状況は、1950年代、日本人留学生の目にもとまり、『ぷえるとりこ日記』(有吉佐和子、1964年)に鮮明に描かれた。スペイン植民を背景にした長年の負の遺産、人種による階層、貧困、さらにアメリカの準州ゆえにかかえる問題をアメリカ人学生と、有吉自信の体験を反映させた日本人留学生の短期滞在日記の併記で暴く。女子大生の無知と好奇心をユーモアたっぷりに描きながらも、異文化の重層性に分け入る困難を伝えて異文化体験の縮図となって、歴史に翻弄されたこの地を浮かび上がらせた。

(教養基礎演習のテキストに使用した『ぷえるとりこ日記』の感想や授業の様子は授業ゼミ紹介に掲載しています。)

豊かさを求めてニューヨークに渡った若者たちの姿はミュージカル『ウエストサイド・ストーリー』[映画は1961年度のアカデミー賞10部門を独占]に描かれた。先行移民たちとの抗争と悲劇を描いた作品はプエルト・リコ移民が持ち込んだ音楽性の豊かさを認めざるを得なかった。そしてそれはレナード・バーンスタインの音楽とダンスナンバーに刻まれた。

杉山恵子 アメリカ史