避暑山荘~外交の舞台となった離宮(中華人民共和国)

2013年09月22日

北京から東北方向に200キロ余り、万里の長城を越えた先に、承徳はある。承徳は熱河とも呼ばれた場所で、緯度が高く標高も300メートルを超えるため、気候は冷涼である。ここには清朝時代に建設された避暑山荘があって、今も世界中の人々を迎え入れている。清朝は元来長城の外側に暮らす満州族が立てた王朝であり、承徳はいわばふるさとの地にあった。

避暑山荘の歴史は康煕帝時代(在位1661年-1722年)に遡る。避暑山荘は1703年に着工し、10年後に完成した。武烈河の水を引いて造られた人工湖を中心に、その南には宮殿区が、西側には山岳区が広がる。また、東側から北側にかけては外周部に「外八廟」と呼ばれる仏教寺院が配されているが、これらは主に康煕帝の2代後の乾隆帝(在位1736年-1795年)の時代に建立された。乾隆帝もまた避暑山荘を愛し、しばしば訪れた皇帝であった。

避暑山荘は夏の離宮であるとともに、モンゴル族懐柔のための接待の場であった。しかしながら、乾隆帝の御代も終わりに近づいた1793年のこと、珍客が現れた。イギリス国王ジョージ3世の全権大使ジョージ・マカートニーが乾隆帝への謁見を求めてきたのである。80歳の誕生日を迎えようとしていた乾隆帝の姿は、マカートニーの目には、「あらゆる栄光につつまれたソロモン王」のように映ったという。謁見に際して、中国風に叩頭するのか、西洋風に跪くのかという点をめぐって、論議が繰り返されたことは有名である。

避暑山荘を訪れたマカートニーが何よりも感銘を受けたのは、庭園の美しさであった。当時、イギリスでは風景式庭園と呼ばれる様式が流行していたからであろうか、同様に不規則さと多様性を重んじた中国庭園の美は、マカートニーにとって理解しやすかったようである。「ベドフォードシャーのリュトン園」を思わせる人工湖周辺を騎行したマカートニーは、そこに「ストウの華麗さ、ウォバーンのもう少し落ち着いた美しさ、ペインズ・ヒルの仙境」を見た。また、パビリオンから眺める山岳部は「変化に富み、珍奇で、美しく、崇高で」、どこかしら「ウェストモアランドのローサー・ホール」に似ていた。

当時、大幅な対中貿易赤字に苦しんでいたイギリス政府は、貿易収支改善のための条約を結びたがっていた。マカートニーらの訪中もそのためであったが、目的を果たすことなく帰国した。いうまでもなく、美意識の一致と利害の一致は別であった。半世紀以上が経った19世紀半ば過ぎのこと、避暑山荘は再び外交の舞台となった。乾隆帝はすでに亡く、いまや咸豊帝の時代であった。アロー戦争でイギリス・フランス連合軍を逃れ、避暑山荘に避難していた咸豊帝は、1858年に天津条約を、1860年には北京条約を批准するのを余儀なくされた。皮肉なことに、咸豊帝こそ歴代皇帝のなかで避暑山荘滞在の最長記録を作り、ここで崩御した皇帝であった。

高濱俊幸(イギリス政治思想史)

「四庫五書」を収めた清王朝の蔵書楼

外八廟のひとつ小ポタラ宮の正面