10月21日に、私を含め7人の留学生で、多摩市立大松台小学校を訪問しました。それぞれの留学生が、母国語でのあいさつと、じゃんけんを子どもたちに教える。そして、母国語のみを用い、その上で子どもたちと意思疎通をはかる。それが、この訪問の目的でした。
私は当初、とても不安に感じていました。日本語をわからない"ふり"をしなくてはいけない、というプレッシャーと、母国語だけで理解してもらえるだろうか、という不安が混ざり合って、とても複雑な心境でした。
ブラジルには「じゃんけん」はなく、それに似た遊びを教えることになりました。私は、ここで頭を抱えました。このブラジルの手遊びはなかなか複雑で、小学校二年生に、ポルトガル語だけを用いて説明できる自信がなかったからです。
ですが、訪問当日になり、子どもたちに囲まれてみると、その不安や心配は泡のように消えていきました。子どもたちにとって、じゃんけんの難しさや、言葉が通じない、ということは些末なことなのかもしれない、と感じました。彼らは、私がどんな人であれ、どんな心配を抱えていたとしても、明るく、温かく、好奇心を持って接してくれたからです。必死に理解しようと努めてくれる子、次から次へと質問をくりだしてくる子、静かに観察しているだけの子、様々な子どもたち。私は、その子たちに向かって、伝えよう、理解してもらおう、と一生懸命になりました。しかし、私はブラジルの手遊びを、きちんと説明することはできなかったのです。
私は再び不安になりました。理解してもらえないことを、何度も経験している私にとって、それはある種の恐怖感を伴うものでしたから。ですが、ここで印象深いことが起きました。私のグループにいた「しゅんたくん」という少年は、私の書いた手遊びの図を静かに眺めていました。すると、彼は突然私を振り返って、「ぼく、わかったと思う!」と意気揚々と話し始めました。彼の説明は、合理的で、とてもわかりやすいものでした。「合ってるよね?」という彼の質問に、「そうだよ」と首を縦に振ることができず、私はとてももどかしく感じました。ですが、彼はきちんと、すべてを理解していたのです。私は、このしゅんたくんの姿に、胸を打たれました。彼は、自分の中で理解できないこと反芻し、それを克服したのです。
言葉が通じなくても、心を通わせることができる。こういったメッセージを、私は懐疑的にとらえていました。大切なことは、言葉を通してでしか伝わらない、と思っていたからです。今まで、伝わらないことの悔しさに、何度唇を噛み締めたことでしょうか。だけれど、そういった悔しさを打ち破るものこそ、非言語的なもの--つまり、理解したいという感情や、試み--なのだ、と気づかされたのです。こういったことは、言葉では人に説明できないことでしょう。経験を以てでしか、本当の理解は得られません。私は、小学生たちと触れ合うことで、大事なことを再確認することができました。「子どもに教えるよりも、教えられることが多い」と、よく耳にします。それは事実だったのだな、と今は強く思います。そのことを子どもたちに伝えることができればいいのに、と思いながら、それができない寂しさを同時に感じています。子どもたちは、私たちの訪問から何かを学んでくれただろうか、と淡い希望を抱いている今日このごろです。