■卒業年:1992年3月卒業
■勤務先:フリーランスの通訳・翻訳・コーディネイター
学科は英米文化学科でしたし、学生時代に韓国に興味があったかというと全然そうではありませんでした。中高も恵泉出身で、植民地時代や戦争中の日本のことを意識した教育を受けてきたせいか、社会意識の高い同級生は韓国との交流を進める活動などもしていましたが、私は「申し訳ない」という気持ちが先に立ってしまい、個人的に近づくことをなんとなく躊躇していました。
ところが卒業後の進路を考える時期になって、就職情報会社から送られてくる資料の中に大宇という韓国の会社の募集が目につきました。父も「大きな会社だよ」と言うほどの企業ということを知って、面接を受けてみる決心をし、運よく採用にまで至りました。
それが韓国との付き合いの始まりなのですが、勤め先は大宇とはいえ日本支社で、駐在員はみな日本語を勉強して来ているエリートですから、韓国の本社から掛かってくる電話を取り次ぐ時に「もしもし」とか「少しお待ちください」を韓国語で話せれば済むぐらい。仕事は日本語で充分でした。実際、当時の私はハングル文字も丸とか棒の組み合わせにしか見えなかったです。
入社して二年目ぐらいに、これからどう生きていこうかと考えるようになって、その時に初めて自ら韓国語を勉強してみようと思いました。上司に勧められたというよりは、何か始めないという焦りのような思いに突き動かされたのですが、逆に上司には「なぜ韓国語を勉強するのか」「英語の方がいいのではないか」と言われる時代でした。実際に勉強してみると会社や、通っていた教会ですぐに実践できたので、勉強した分、使える手応えがあったのがモチベーション維持に繋がりました。その後、直接韓国に旅行してみて、机上の知識とは違う、現実の人との出会いを通して知る韓国に惹かれました。それで、もっと本格的に勉強しようと思い、大宇を辞職してソウルの延世大学に語学留学しました。
約1年間学んで帰国し、帰国後はサムスンの日本支社での仕事に就きました。ただ一年語学を勉強したからといって、現実は仕事にすぐ生かせるというわけではなく、入社後も将来の仕事に対する悩みは尽きませんでした。そのうち通貨危機でIMFが入ることになり、サムスンでも大幅な組織改変が行われ、それを機会に会社を辞めました。
恵泉出身者はそうした志向の人が多いと思いますが、私も常に、自分自身の仕事を持ちたいと思ってきました。時代の流れも手伝ってくれて、韓流ブーム後に韓国語を学びたいという人が増えたこともあり、まず日本で韓国語の講師の仕事につくことができました。その後、一念発起して韓国に渡りました。韓国では知り合いを通じて、テレビ局の通訳アテンド、現地市場調査や資料翻訳などの傍ら、カフェを運営したりもして、色々な人との出会いがありました。
恵泉がそんなに知られているとは全く思っていなかったので韓国に行って、出身大学を話題にする機会があまりなかったのですが、ある時、韓国の地方都市で出会った人との会話の中で「とても意識的な教育をしている大学が日本にある」という話しから、「私は恵泉という大学の出身なのですが...」と口にしてみたら、「自分の周囲で恵泉を知らない人はいない」と言われて嬉しかったです。
その方の友達が園芸短大の最後の頃の卒業生だったそうです。「学園祭で踊るメイポールダンスのクイーンだった」など、ひとしきり盛り上がりました。韓国でまさかメイポールダンスの話が出るとは思わなかったのでびっくりしましたが、すごく嬉しかったです。