保田與重郎と義仲寺

2011年10月19日 

毎年秋に、ゼミの学生たちと京都・滋賀の研修旅行に行くのですが、大津の義仲寺にはたびたび立ち寄っています。ここは、『平家物語』に登場する木曽義仲の墓所として、また、松尾芭蕉の墓所としても有名ですが、境内の最奥に、保田與重郎の墓があります。保田は「日本浪漫派」の中心となった評論家で、戦時下の青年に絶大な人気があり、戦後は一時、マスコミから放逐されました。奈良県桜井市に生まれた保田の墓が義仲寺にあるのは、なぜなのか。私は奇異の思いにとらわれました。

義仲寺は荒廃と復興を繰り返してきました。寺伝によれば、中世末期の天文年間に戦国大名の六角氏によって建立され、その後荒廃したところ、元禄期に松尾芭蕉が墓所と定めたことで復興し、さらにまた荒廃したのを、近世後期には大坂の俳人、蝶夢が復興しました。そして、その寺が戦後、荒廃していたのを、復興に尽力したのが保田だったのです。そこに私は、芭蕉を敬愛した保田の、鮮やかに一貫した生き方を見ることができると思います。
そして、このような荒廃と復興との繰り返しに、私は「古典」の本質を見る思いがします。「古典」とは不変の価値を持つ作品ではなく、常に新たな解釈が施され、価値評価が更新され続ける作品を指すのです。保田の古典に対する評価もまた、現代では古びています。そのような評価の更新、すなわち荒廃と復興は「古典」が現代に生きている証しでもあるのです。

佐谷 眞木人

義仲寺

松尾芭蕉像