1436年に執筆されたイタリア語版『絵画論』の序文で、レオン・バッティスタ・アルベルティはフィレンツェの芸術文化の高揚をたたえ、古代人に勝るとも劣らぬものと称賛した。ルネサンスの人々とっての古代とは、古代ギリシア・ローマのことであり、その文化は当時の教養人にとって目標とすべき対象であった。ゆえに、古代の文化と比肩するという評価は、同時代の芸術家にとって最高の賛辞だったはずである。
なかでもアルベルティが健筆をふるうのが、友人でもあったブルネッレスキが建造した大聖堂のクーポラ(円蓋)についてである。当時、キリスト教世界最大級の教会であったサンタ・マリア・デル・フィオーレ聖堂は1300年前後から建造が進められていたが、15世紀初頭になってもいまだに天井部分が完成していなかった。すべてのフィレンツェ市民を収容できるようにと設計された聖堂の内部は広大であり、その中央の八角形の空間上部は雨ざらしの状態で放置されていた。ここにブルネッレスキは、半球形よりもやや高い、軽やかというよりはむしろ重量感を感じさせる形体のクーポラを建造する。これを評してアルベルティは「空にそびえ立ち、その影はトスカーナ地方のすべての住民を覆う」と評している。トスカーナ地方というのはもちろん大げさだが、500年近くの月日がたった現在でも、旧市街の主要な道路に出ればいたるところで赤いレンガ造りの巨大な円屋根を眺めることができる。八本の稜線を持つクーポラの姿は、現在でもフィレンツェの街のシンボルなのである。
15世紀、フィレンツェの街は多くの事業を通じて自身を飾り立てていく。大聖堂のクーポラ建造とほぼ並行して、洗礼堂にはブロンズ製の門扉が制作され、近隣のオルサンミケーレ教会の外壁には、ブロンズや大理石によって多数の彫像が設置された。また、メディチ邸やストロッツィ邸といったこれまでにない規模の私邸も次々と建造される。まさしくこの時代に、フィレンツェの街並みそのものが、一つの芸術作品へと変貌するのである。
伊藤拓真(イタリア・ルネサンス美術)