アメリカ合衆国、カリフォルニア州中央部、シエラネバダ山脈の西山麓にひろがる原生地域。ジャイアントセコイアの巨木、氷河が刻んだそそり立つ花崗岩の絶壁や巨大な滝で知られる。1850年代のゴールド・ラッシュによって流入した白人が当時この地にいたアワニチ族を敵対する部族が呼んだ呼称『ヨセミテ(殺し屋)』を誤って、地名としたという。今日ではロッククライマーの聖地とよばれ世界中から人が集まる
自然遺産としての登録だが、アメリカ文化の視点からは、文化遺産といっていい。世界に先駆けて生まれた「国立」公園の発想の原点がここヨセミテだからである。アメリカにおける国立公園の理想は「万人」に開かれた公園として後世に残すというというもので、「万人」の平等を掲げた独立宣言にも匹敵するとみなされてきた。ヨセミテ渓谷を新大陸における『カテドラル』と呼び、神聖、犯されざるものとして、開発と闘ったジョン・ミューアの功績が大きい。時の大統領、セオドア・ルーズヴェルトと3日間、ヨセミテでキャンプした話はことに有名で、その後のルーズヴェルトはミューアが乗り移ったといわれるほど、各地に国立公園を指定する功績を残す。
しかし、公園の区域内にあったにもかかわらず、その南端に、大地震(1906)後のサンフランシスコへの水資源として、ハッチ・ハッチーダムが建設されたことは、自然保護がいかに難しいかを後世に記すこととなった。「持続可能な有効利用」を優先した森林長官ギフォード・ピンショーに対抗して「手付かずの自然」を残すことを謳って最晩年を闘ったミューアの敗北は、アメリカにおける自然保護運動誕生の契機になった。
写真家アンセル・アダムズはこのヨセミテを筆頭に国立公園を撮り続けて、第2次大戦中のアメリカ人の愛国心に訴えた。皮肉なことに、おなじころトパーズ強制収容所に入れられていた日系人画家オバタ・チウラは自ら描いたヨセミテがこころの支えになっていたという。スコットランド移民であったミューアしかり、ヨセミテの体験はアメリカ人である証明として語られてきた体験なのである。当然のことながら、退去を命じられた先住民の体験は全く別である。
杉山恵子(アメリカ社会史)