「高麗大蔵経」と仏教文化の交流‐八萬大蔵経の納められた伽倻山海印寺(大韓民国)

2012年06月21日

凛とした空気の中、参道が山の中腹へと続く。軽く汗ばみ始めたなと感じながら、石段を登ると海印寺に辿りついた。海印寺は新羅の名僧、義湘が802年に加耶山中腹に開いたお寺である。元曉とともに新羅仏教の双璧をなす義湘は、唐に渡り華厳宗の第二祖智儼に学び、華厳宗を朝鮮に広めた。これとは対照的に元曉は新羅に止まり、新羅をも飛び越える普遍的境地を開拓したといわれる。中国と日本に国分寺はあるが、朝鮮には国分寺の存在が不思議と見られない。仏教学者の鎌田茂雄は、義湘が建てた、海印寺、梵魚寺、華厳寺などの華厳十刹がその機能を果たしているとみている。新羅に誕生した護国仏教は高麗時代に入ると僧兵を多く輩出し、文禄・慶長の秀吉の侵略時に活躍している。

現在海印寺に保管されている「大蔵経」は、いわば仏教書のダイジェスト版である。梵語を漢訳し「大蔵経」としたのは宋代に始まる。高麗はこの「宋版大蔵経」を輸入し、遼の侵入を防ごうと独自の「大蔵経」を完成する。しかしこの最初の「大蔵経」はモンゴルの侵入で消失してしまう。「高麗大蔵経」は三度目に刊行されたものである。誤植も少なく、経・律・論の三蔵のみならず、禅をはじめ新羅の高僧の著述も含まれ唐代の思想を知り得る貴重な資料である。
当時はまだ活字が無く、版木に一文字一文字手彫りするという極めて忍耐と手間のかかる作業が都から離れた江華島で16年間続けられ、1252年に完成を見ている。版木は樺材で作られ、三年間海水に浸し、数年海水で蒸し、乾燥させたものである。一字、一字彫っては仏を拝み、モンゴル降服を祈願し、仏力により国を守ろうとした。現代人には想像しがたい信仰のエネルギーである。
江戸時代の朝鮮との交隣外交は有名であるが、それ以前に、倭寇の日朝協同制圧により、友好関係が成立し、室町時代に最初の朝鮮通信使が派遣されていることはあまり知られていないのではなかろうか。日本と朝鮮との交易は隆盛を極め、釜山近郊にジャパニーズ・タウンが出現するほどであったという。現在でも西日本の寺院に多くの朝鮮鐘が存在し、高麗仏・仏画も多数存在する。仏教文化の交流もまた盛んであった。1398年に足利幕府は高麗大蔵経の版木を求めて使いを遣わしたが、朝鮮王朝はこれを丁寧に断わる。しかし諦めきれず、1423年に僧圭籌・梵齢を派遣した。一部しかないと断られる、二人は承服せずに絶食して版木を請求した。朝鮮国王の世宗は三度も家臣を遣わし絶食を止めさせたというエピソードが残されている。

李 省展(朝鮮近代史)

海印寺

大蔵経板殿