王立展示場(Royal Exhibition Building)は、19世紀に開催された万国博覧会の会場としては、世界で唯一現存する建造物である。万国博覧会は1851年に初めて開かれた。このときロンドンのハイドパークに会場となった「水晶宮」が姿を現したが、期間が終わると移設されて、後に火災で焼失した。ロンドン万博後、ニューヨーク、パリ、ウィーン、フィラデルフィアなど各地で開催され、オーストラリアでも1879年のシドニーと1880年のメルボルンで連続して万博が開かれた。王立展示場は、メルボルン万博の会場であった。
ここでオーストラリアの歴史を紹介すると、ヨーロッパからの移住が始まるのは、1770年に発見された東海岸が「ニューサウスウェールズ」と命名されてからである。1786年に同地はイギリスの流刑植民地となった。1830年以降は自由移民も増え、さらにイギリス国内で監獄改革が進展したこともあって、1840年にニューサウスウェールズへの流刑制度は廃止された。
オーストラリアの状況は19世紀半ばに大きく変わる。1851年の金鉱発見がゴールドラッシュを引き起こすと、人口が急増していった。1850年代にオーストラリアで産出した金は、19世紀前半に全世界で産出した総量に匹敵すると言われる。金鉱発見以降1890年頃まで経済成長が続いたオーストラリアであったが、同年秋のアルゼンチン革命をきっかけにバブル崩壊が始まっていく。
こうして見ると、1880年のメルボルン万博は経済成長のまっだなかで開催されたイベントであり、王立展示場はその大いなる遺産であったことが分かる。万博では初めての試みとして、一般入場者にサインと感想を書き残してもらうようにしたが、その結果1万6千人が記帳した。そこには、「盛大」「輝かしい」「壮麗」などの言葉とともに、「女王万歳」などの文字も見え、当時の浮き立った気分を今日に伝えている。
王立展示場は恒久的建造物であった。王立展示場はその後も活用されて、1888年には入植100周年を記念してパーティーが開催されている。さらに、1901年、各植民地が合邦してオーストラリア連邦が成立すると、第1回連邦議会の議事堂となった。連邦議会がメルボルン議事堂に移ってから1927年までは、ヴィクトリア州議会の議事堂として使われた。こうして使われ続けたことが、王立展示場が現存する理由なのかもしれない。
高濱 俊幸(イギリス政治思想史)