平泉 ―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―(日本)

2012年07月09日

岩手県南西部の平泉町中心部には、平安時代末期の寺院や遺跡群が多く残る。そのうち中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山の5件が、「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」として2011年6月にユネスコの世界遺産一覧表に記載された。これは東北地方で最初の登録で、東日本大震災からの復興を後押しする効果が期待されている。

平泉は、平安時代末期に東北地方最大の有力者だった奥州藤原氏の本拠地である。奥州藤原氏は東北地方の金や特産物を朝廷やその有力者に贈り、東北地方の軍事指揮権を得て、それを根拠にこの地方の実質的支配者となった。初代藤原清衡が居館を造った11世紀末から、四代目の泰衡が源頼朝の軍勢に滅ぼされた1185年まで、平泉は繁栄を極めたと言われている。四代の当主やその家族たちは京都や中国北宋の仏教文化を積極的に取り入れ、ここに仏の世界を表す寺院や庭園を数多く造営した。
中尊寺は藤原清衡が造営した寺院である。伝えによれば、清衡は戦乱の死者が敵味方の区別なく仏の世界に導かれるようにと祈願して造営したという。中世の火災で多くの建物が失われたが、「金色堂」と呼ばれる阿弥陀堂は当時の姿を残している。二代目基衡が造営した毛越寺の建物も火災で焼失し再建されたものだが、庭園だけは当時の姿をよく残している。優美な曲線を描く池の護岸、荒磯を思わせる出島や立石、断崖を思わせる築山などで仏国土を表現した方法は、仏教の浄土信仰と日本の自然崇拝の融合を示すと評価されている。
観自在王院と無量光院は阿弥陀堂を中心とする寺院で、どちらにも浄土を表現する池をめぐる庭園があったが、今は遺跡となっている。平泉町の金鶏山は、奥州藤原氏の都市設計の規準点であったが、頂上付近に経典を埋蔵した塚が作られていたところをみると精神的な中心地でもあったと推測される。観自在王院と無量光院と金鶏山は、互いに設計上の関係があった。観自在王院の場合は、南門から園池と阿弥陀堂を結ぶ線上に金鶏山頂が見えるように設計され、無量光院の場合は、東門から園池と阿弥陀堂を結ぶ線上に金鶏山頂が見えるように設計されていた。しかも無量光院からは、二月末と八月末に山頂付近に日が沈み、阿弥陀来迎図を思わせる光景が見られる。このことから、金鶏山は浄土信仰に基づく庭園設計にとって重要な意味を持っていたと推測される。

梅澤 ふみ子(日本史、日本宗教史)