知床は、日本では、屋久島、白神山地に次いで3番目に登録された7万1100ヘクタールに及ぶ広大な自然遺産である。流氷による大量のプランクトン、サケ、マスなどの遡上魚、遡上魚を捕食するヒグマ、シマフクロウ、オジロワシ、その他トドなどの海獣やクジラから構成される、対岸のクナシリ島を含めた海と陸の生態系が連鎖する貴重な空間として評価された。それに加え、4番目の小笠原諸島を加えた自然遺産の中でも、知床は独特の条件をもっている。その名前「シレトク(sir-etok)」はアイヌ語で「大地の行き詰まり」を意味し、名所である「カムイワッカ(kamuy-wakka)」の滝も同じく「魔の水」を表している。(この滝の水は、硫黄山から流れる有毒な水で、この場合の「カムイ」は「荒らぶる神=魔」を表している。)つまり、この自然豊かな土地は、もともと先住民族・アイヌ民族の伝統的な領土の一部であるということだ。そして、日本という国家の視点と先住民族の視点は、重要なすれ違いを起こすことがある。
日本政府は、2004年1月にユネスコに登録申請を行ったが、その認識の中にも、また管理計画等の中にも、知床がアイヌ民族の土地としてどのような意味をもつかについての配慮を欠いていた。実は、1869年の「北海道開拓」の開始以来、北海道の自然は、日本政府の開拓政策と大和民族移民の入植で大きく改変された。大規模な森林は伐採されて農地となり、ほとんどの川には(砂防)ダムが建設された。その結果、エゾオオカミなどが絶滅し、アイヌ民族の生活・文化基盤が根こそぎ破壊された。その点、自然破壊の少ない知床は、アイヌ民族が自らの自然観を再び学び、文化を取り戻す場としてこそ重要である。
ユネスコの要請を受け、2004年7月にNGOである国際自然保護連盟(IUCN)の担当者デビッド・シェパード(保護地域事業部長)が、現地での視察・調査を行ったが、この時にアイヌ民族の代表が日本政府の管理計画にアイヌ民族の視点がないことを説明した。また、同年12月には、アイヌ民族の代表がIUCNの本部のあるスイス・グランを訪ね、改めてシェパード部長と意見交換を行ったが、オーストラリア出身の部長は、アボリジニーの世界遺産登録の経験からこの問題をよく理解してくれた。こうした努力の結果、2005年5月に発表されたIUCN報告書には、先住民族としてのアイヌ民族の世界遺産運営への参加が明記されることになり、ユネスコ登録後の日本政府の管理計画でもアイヌ民族の参加が実現した。現在、その自然観に触れる「知床アイヌエコツアー」も実現している。
上村 英明(国際人権法、先住民族の権利)