モン・サン・ミシェルとその湾

2012年09月18日

海のなかに突然避雷針が飛び出したように、粛然と姿を現すモン・サン=ミシェル。フランス西北部のノルマンディー半島の付け根ちかくのモン・サン・ミッシェル湾の干潟にある。雄大な自然の中に圧倒的な存在感をもって現れる建造物は、数ある世界遺産のなかでもマチュ・ピチュと並び人々の心を捉えてやまない。
このモン・サン=ミシェルはフランス語で「聖ミカエルの山」を意味し、モンは山、サン=ミシェルは旧約聖書にその名が記され、守護聖人としても有名な大天使・ミカエルのフランス語読みである。

というのも、708年、ブルターニュのアヴランシュ(アヴランシュとは、ケルト人の一部族アブリンカトゥイ族(ラテン語表記:Abrincatui、fr:Abrincates)に由来する。ラテン語のaberは河口を意味し、catuiとは戦士を意味する。すなわち、『河口に住む戦士』となる。)司教オベールが夢のなかで大天使・ミカエルから「この岩山に聖堂を建てよ」とのお告げを受けて、建造に当たったからという伝承にもとづいているからだ。ただし、オベール司教は当初いたずらと思い、このお告げを信じておらず、3度同じ夢を見たことでやっと本物のお告げであると信じ、周囲約900mの岩山に礼拝堂を建立したというまことしやかな言い伝えもある。
モン・サン=ミシェルの土台となっている岩山は、もともと先住民のケルト人が信仰する聖地、モン・トンブ(墓の山)と呼ばれていた。また、敬虔王ルイ(814-840)の時代の書物によれば妖精たちの住まう森に「トンブ山」と「トンブレーヌの山」の二つの丘があり、俗ラテン語で「丘」を意味する「トゥンバ」からきているという。初期の巡礼者は「二つのトンブ島の大天使・ミカエル様」と呼んでいたが、10世紀クルリュニー修道院の聖オドンによって初めて単数で「モン・サン=ミシェル(聖ミカエルの島)」と言われるようになったそうだ。
ちょうどそのころ、966年に、ノルマンディー公リシャール1世がベネディクト会の修道院を島に建て、これが増改築を重ねて13世紀にはほぼ現在のような形になり、拡張を繰り返し16世紀にほぼ完成した。百年戦争の期間は英仏海峡に浮かぶ要塞の役目をしていており、今もイギリス軍の大砲が残されている。18世紀末のフランス革命時に修道院は廃止され、1863年まで国の監獄として使用されてしたが、ナポレオン3世時の1865年に再び修道院として復元され、今なおベネディクト派の修道院として利用されている。

さて、このような長期間にわたる建築の歴史は、門を入り、場内をめぐりながら確認できる。全体的にゴシック様式だが、深層部には、岩山の上に幾層にもかさなる建築遺構が残り、内部の教会堂はカロリング期の様式、身廊は11世紀から12世紀のノルマン様式、ロマネスク様式だった内陣は百年戦争後の1421年に破壊され、フランボワイアン・ゴシック様式(15世紀半ば~16世紀初頭)に再建されている。1897年に完成した鐘楼と尖塔はゴシック・リヴァイヴァル建築。これらを取り囲むのは13世紀の重層構造の修道院建築と13~15世紀の軍事施設となっている。
それでは、今もベネディクト派修道院として使用されているモン・サン=ミシェルは、ブルターニュに隣接しながらノルマンディー地方に位置づけられているのはなぜか。実は、ここからモン・サン=ミシェルがフランス史にとって非常に象徴的意味をもつということがわかる。モン・サン=ミシェルについて初めて書かれたのは、ドン・ユイーユの手による歴史書であり、その中で先のオベールの奇跡譚が綴られている。もともとケルトの地であり、イギリスの影響が強かったブルターニュの聖コロンバン派の僧たちに対し、8世紀初めのアヴランシュの司教の名はガリアを支配していたフランク族の名前であった。奇跡の伝承の下で教会を建立し、大天使ミカエルの信仰を崇拝するイタリアのモンテ・ガルガーノから聖遺物をもらい、世界の終りに際して悪を体現する竜を打ち負かす軍神ミカエルの威光で、脱ケルト化、脱イギリス化(脱ブルターニュ化)、そしてフランク化を、推し進めようとしたと考えられる。ガリアの地フランク(フランス)をイタリアへ続く巡礼の道を足がかりに「神話的に」打ち建てたのである。
初めの基礎が建立されて1300年以上たち、今の形となるまで800年以上の改築を遂げていたモン・サン=ミシェルが人を惹きつけてやまないのは、壮大であるというだけでなく、このフランスとイギリスの地理的位置を縦糸に人々のさまざまな移動とキリスト教の歴史を横糸に綴られてきた地であり、歴史の地層が幾重にも重なった文化の混在こそが創り出せる奥行きがあるからであろう。

定松文(国際社会学、ジェンダー論)