ここ20年ほどで、19世紀から20世紀に作られた近代建築を保護する動きは非常に盛んになった。古代や中世の建造物の保護が19世紀にはじまったのに対し、新しい建造物はどんどん建て替えられる傾向にあったが、最近は20世紀に入ってから作られた建物でも、改築したり、修復したりして再利用することが増えてきた。日本では1993年に重要文化財の種別として「近代化遺産」というカテゴリーが設けられた。それは、「近代」という時代が、ある意味で過去のものと捉えられるようになったということでもある。
2002年に世界文化遺産となったテルアヴィヴの登録名には、「近代建築運動」というサブタイトルがついている。まさに近代建築保護の流れの中で登録に至ったとみることができる。しかしこの街並みの背後には、ヨーロッパと中東情勢を結ぶ暗い過去がある。
テルアヴィヴの中心部が形成されたのは、1930年代から50年代のことである。ドイツのバウハウスをはじめ、ヨーロッパの建築学校で最新の理論を学んだ建築家たちがテルアヴィヴに移り住み、統一的な建物で構成された都市を作った。それは、国際様式(インターナショナルスタイル)とも呼ばれ、機能的で装飾を排した造りに特徴がある。テルアヴィヴは、建築に用いられた素材の白さからホワイト・シティと呼ばれることになった。
建築家たちがテルアヴィヴに移り住んだ背後には、ヨーロッパにおけるユダヤ人差別があった。19世紀末、フランスでユダヤ人に対する差別をもとにしたドレフュス事件、東欧でユダヤ人に対する迫害が起こると、ヨーロッパのユダヤ人の中にはパレスチナの地にユダヤ人国家を建設しようという動き(シオニズム運動)が現れた。テルアヴィヴは、比較的アラブ人の少ない地であり、多くのユダヤ人がここに移り住むようになった。1930年代になると、ヨーロッパでのユダヤ人差別は加速し、ドイツでは1933年にナチス政権が誕生する。ホワイト・シティは、このような時代背景によってヨーロッパから移り住んだユダヤ人によって建設された。
第一次大戦中、イギリスがユダヤ人国家の設立を認め、他方でアラブ人にも独立を認めたという経緯はよく知られている。第二次大戦後、両者の対立は不可避のものとなってしまった。1948年、イスラエルは独立宣言をするが、その宣言がなされた建物もテルアヴィヴのホワイト・シティの一部である。多くの意味で、ここはイスラエルを象徴する都市である。地中海に面した美しい都市では、その後、流血の惨事が繰り返された。世界遺産登録がなされた現在も、この対立が過去のものとなっていないことは言うまでもない。
荒又美陽(フランス語社会圏)