筆者は小学生のころ社会の授業で何度となく「北九州市の八幡製鉄所と冨岡の製糸場、この二つの工場が明治時代の日本を支えた殖産興業である」と先生から教えられました。子供なりの理解では、江戸時代を脱し近代明治政府の国策として、要するにヨーロッパ列強国と肩を並べるために、政府は国を挙げて近代産業に力を入れ製品を輸出して外貨獲得に必死になった、ということでしょう。力を入れていた輸出品は、日本茶と絹の生糸だったのです。やがて当時の今から考えれば劣悪な労働環境、いわゆる女工さんの出現と活躍、労働争議の勃発などの社会問題にも筆者は目が開かされてきました。富岡製糸場は厳密にはこの「世界遺産」のブログに載せるには、まだふさわしくありません、現在は世界文化遺産認可申請中だからでフライングと言えますが、認可の期待を込めてあえて載せたいと思います。
明治政府はフランス人の技術者ポール・ブリューナに頼み、フランスから綿糸機や蒸気機関を輸入し養蚕業が定着していた群馬の冨岡に日本初の機械製糸工場を建築しました。実際に操業を開始したのは1872年11月4日、明治5年の10月4日に当たります。いわゆる「お雇い外国人」を採用して近代化を急いだのです。日本人の器用さ、そして勤勉さも手伝って絹産業の技術は年々向上し、ヨーロッパにどんどん輸出され外貨獲得に多大の貢献をしたのです。今の日本では考えられない右肩上がりの好景気、当時の最先端技術の普及、まさに近代化の象徴的役割を担ったのが富岡製糸場であり典型的な官営模範工場の一つと言えます。
今でも約1万5千坪の敷地内に東・西繭倉庫、繰糸場、事務所、外人宿舎などのレンガ建造物が当時のまま保全され残っています。2005年7月に「旧冨岡製糸場」として国の史跡に指定され、翌2006年には一部が国の重要文化財に指定されました。また2007年には「富岡製糸場と絹産業遺産群」として日本の世界遺産暫定リストに加えられ、2012年には文化庁文化審議会世界文化遺産特別委員会において「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界文化遺産へ推薦することが了承されています。日本人の総意として、日本人の誇りとしても一刻も早い認可が下りることを願っています。このレンガ造りの工場内で悲喜こもごもの人間ドラマが明治時代に始まったこと、軽井沢高原に向かう途中の群馬の冨岡で、色々な思いを巡らせてみませんか。
岩村太郎(哲学)