「大聖堂の時代」の幕開け シャルトル大聖堂

2012年11月21日

12世紀から14世紀、地域によっては15世紀にいたるまで西ヨーロッパで流行した芸術様式を「ゴシック美術」と呼ぶ。「ゴシック」の語は、古代の末期にローマ帝国に侵入したゴート族に由来する。しかしながら、ゴシック美術が花開いた時代は、ゴート族を始めとするゲルマン民族の大移動からは長い年月が経過しており、「ゴシック美術」と「ゴート族」の間には直接的な関係はほとんどない。

「ゴシック」という用語が芸術様式の呼び名として用いられるようになるのは15世紀のイタリアである。当時のイタリアはルネサンスの勃興期にあたり、古代ギリシアやローマに見られる古典文化を復興させるべきものだという意識が生まれていた。その理念のスポークスマンとも言うべき存在は、レオン・バッティスタ・アルベルティやロレンツォ・ヴァッラといった人文主義者である。彼らは古代ギリシアやローマの文化と対比させる形で中世末の芸術様式を前景化し、「野蛮な」という意味合いを込めて、異民族の名をもって「ゴート族の」と呼びならわしたのである。この考えは続く時代のスタンダードとなり、「暗黒の中世」と呼ばれるような歴史概念が長く持続することになった。

しかしながら、その「野蛮な」ゴシック美術は実に豊かな芸術的成果を現在に残している。ゴシック美術が栄えた時代、都市に住む商工業者が経済的な発展を背景に、強力な自治権を獲得しつつあった。都市の発展の過程において、宗教的中心である大聖堂の造営が活発に行われるようになる。ヨーロッパの諸都市に良く見られる大聖堂を中心とした街の外観は、ゴシック時代に形作られたものが多い。

ゴシック建築の中心的地域のひとつとなったのが中北部のフランスで、シャルトル大聖堂はフランスのゴシック建築最盛期の幕開けとなったものである。1194年の火災で既存聖堂の一部が消失したあと、急ピッチで進んだシャルトル大聖堂の再建には、フランス各地で熟成していたゴシック建築の諸要素がふんだんに盛り込まれた。既存の西正面や内陣の一部は保存しつつも、尖塔アーチやフライング・バットレスなど用いた新構造によって既存の諸聖堂をはるかにしのぐ高さを実現するとともに、開口部が極大化される。開口部には一面にステンドグラス装飾が施され、聖母子や旧約聖書の人物などの厳格な宗教主題はもちろんのこと、聖堂の建造に貢献のあった商工業者の生活の一場面を思わせる生き生きとした日常場面も描かれている。

シャルトル大聖堂で集大成されたゴシック建築は、その後、アミアン大聖堂やボーヴェ大聖堂に引き継がれていく。フランスの盛期ゴシック、「大聖堂の時代」の始まりである。

◎ドイツにおけるゴシック建築の例は: ⇒ 「ケルン大聖堂(ドイツ)

◎ゴシック美術が後世のヨーロッパで再評価されるのは、19世紀を待たなければならない。ゴシックの再評価については: ⇒ 「ウェストミンスター宮殿(イギリス)

伊藤拓真(西洋美術史、イタリア・ルネサンス美術)

シャルトル大聖堂西正面

バラ窓のステンドグラス