この地は長らく続く民族紛争によりどこよりも早く保護が必要であり、1981年に世界遺産に登録され翌年に危機遺産リストに加えられており、最も長く危機遺産に登録されている。エルサレムの帰属問題は現在のみならず、遥か昔の旧約聖書の時代にまでさかのぼらなければならない。
サウル・ダビデ・ソロモンと続いたユダヤ王朝の歴史、紀元前11世紀ころのダビデに注目してみよう。羊飼い出身の美少年、竪琴の名手で運動神経抜群の勇敢な若者、まさに「永遠の少年」の代名詞となるほどの理想的存在がダビデであり、のちのダビデ王なのである。さてここでヨーロッパではあまりにも有名な物語、少年ダビデがペリシテ人の大男ゴリアトを打ち負かした話を書き述べたい。旧約聖書「サムエル記上」の17章以下に詳しく語られているが、イスラエルとペリシテ人の戦い、これは現在も続くイスラエルとパレスチナの戦いの原型なのである。遊牧をしたり時々農耕定住をしたり、ともかく現在のような国境という概念がきちんとない時代のことではあるが、それでも一応自分たちの民族の支配地という考えはあったのであろう。今から約3000年前からユダヤ・イスラエルとペリシテ人(パレスチナ人)は小競り合いを繰り返していた、サムエル記によるとイスラエルはペリシテ人の大男ゴリアトが出てきてから特に手を焼いていたようである。しかし少年ダビデはゴリアトとの一対一の無謀な決闘を決意する、袋に小石を入れ石投げひもを持つ、そして大男ゴリアトに勝ち目のない挑戦をした。子供相手の喧嘩を軽く見たゴリアトは自信満々にダビデと対峙した。ダビデは袋から小石一つを取り出し石投げひもにセットする、ブルンブルンと数回ひもを空に回したのち、大男ゴリアトめがけて投げつけた。この石はゴリアトの額に命中し一撃で撃ち殺したのである。剣を持たないダビデはゴリアトから剣を奪い、とどめを刺して首を切り落とした。これを見ていたペリシテ軍は全員逃げ出し、イスラエルの完全な勝利に終わり、しばらくの平和が続いたというのである。と言ってもよく考えてみれば、イスラエルの側から見たという一方的歴史観ではある。
しかしこれを機に、すなわち紀元前11世紀ころからエルサレムの街は「ダビデの街」あるいは「偉大なる王の都」と呼ばれるようになった。この街は堅固な壁に守られた重厚な城塞都市で、ダビデの息子ソロモンがさらに都市の壁を拡大した。けれどもその後の歴史は悲惨極まりない、今日に至るまでイスラム教徒とユダヤ教徒・キリスト教徒との争いの嵐に巻き込まれ、破壊と再建を繰り返している。聖地として観光名所として賑わうエルサレムの真上には、今この瞬間も爆撃機が轟音を轟かせている。
エルサレム市街は宗派ごとにいくつかの地区に分けられているが、キリスト教徒地区にはイエス・キリストが十字架を背負って歩いたとされる「悲しみの道」がありヴィア・ドロローサとして世界中で知られる。この道で水一杯を求めたイエスの願いを断ったユダヤ人は、永遠に呪われるものになったという、S.キルケゴールの伝える逸話が有名である。またこの道はキリストが処刑されたゴルゴタの丘に建てられた聖墳墓教会に通じている。エルサレムの旧市街とその城壁群を歩けば、今も続くユダヤ問題が自然と浮かび上がってくるのである。
岩村太郎(キリスト教学・哲学)