華城と実学(大韓民国)

2013年07月01日

朝鮮王朝で学問の振興に熱心であった国王は世宗と正祖であるといわれている。第14代国王の世宗は集賢殿に知識人を集め、民衆の文字へのアクセスを容易にするハングルを考案させた。第22代国王の正祖は、王立図書館・奎章閣(けいしょうかく)を創設し、内外の書籍収集に尽力している。

韓流ドラマにも取り上げられた正祖(李祘:イ・サン)は、父親が保守的な老論派によって殺害されたことから、当時主流派であった老論派を退け、身分や出身地にかかわらず、有能な人材を登用したことで知られる。貴族である両班のみならず、庶子や中人が活躍の場を広げることとなった。そのような背景から、朱子学を思想内在的に批判し、実用・実際を重んじる実学思想が台頭することとなる。親孝行の正祖は父(思悼世子)の墓を楊州から水原に移し、その周囲を城塞化したのが華城である。正祖は水原に遷都をも考えていたといわれる。築城に当たっては文禄・慶長の役や丙子胡乱(へいしこらん)の戦乱で見られた朝鮮の城の弱点を補うために、西洋の築城技術をも取り入れ、東西の技術が融合するなどの創意工夫がなされた。華城の設計に携わったのが実学派の巨匠・柳馨遠(ユ・ヒョンウォン)であり、丁若鏞(チョン・ヤギョン)は築城に携わり、数々の機器を発明することで早期完工に貢献した。1794年に着工、37万人を超える労力が投入され、わずか28カ月後の1796年に完成を見ている。

華城は八達山と市内に広がる平城と山城の長所を兼ね備えており、城の間を水原川が流れている。華城は都を守る城郭としての機能を備えており、芸術的な曲線が随所に見られる。天主閣を中心とする日本の築城様式とは異なり、街全体を城壁で囲む様式である。城内には宮殿とともに民衆の家屋があり、市場、食堂、商店街もあった。華城はソウルと三南を結ぶ交通の要所に在り、四方を山で囲むことを理想とする風水地理説に基づく築城法とは異なっている。これは正祖が、地の利を生かすことで物資の流通を活発にし、商業の活性化を企図したものといわれている。華城は都を警備する精鋭部隊・壮勇営から選別した勇猛な壮勇外営によって守られたのであるが、正祖が夢に見た遷都は、彼の死去によりかなわなかった。

華城には八達門や華西門など韓国の宝物に指定された門や、最も美しいといわれる水原川をまたぐ水門としての機能を備えた華虹門など、造形美に富む数々の建造物が点在する。また正祖も登ったとされる将台からは、風光明媚な八達山と市内十里を見渡すことができる。1997年に世界遺産に登録されている。

李省展(朝鮮近代史)

城壁と遥かにかすむ将台

蒼龍門―石と煉瓦、木と瓦の協演―