海洋国家のシンボル ―― ピサの大聖堂広場(イタリア)

2013年07月26日

「郷土愛」としばしば訳されるイタリア語に、「カンパニリズモ」(campanilismo)という語がある。ただし、日本語で郷土愛といった場合とは違って、カンパニリズモの持つ語感は必ずしも良いものではない。自分の住む町こそがどこよりもすぐれているというような偏狭な思い込みを揶揄して、むしろ否定的な意味合いで使われることが多い。

カンパニリズモの語源となった「カンパニーレ」(campanile)は、鐘(campana)を設置するための建造物、なかでも特に教会付属のものをさす。イタリアの教会建築では通常塔(鐘塔)の形をとり、その頂上に鐘が設置された。数ある教会のなかでも町の中心的な教会である大聖堂(ドゥオモ)の鐘は、都市の住民にとって特別の意味をもつ。町全体に響き渡る鐘の音は、都市の住人が自身の地域的アイデンティティーを感じる対象でもあり、鐘を設置する塔も、より高く、そして豪壮なものが競って建造された。教会建築において、大聖堂そのものとならんで重要なのが鐘塔なのである。出身地の異なるイタリア人が集まれば、誰もが自分の町の鐘塔が一番だと言う。カンパニリズモとは、そのよう状況を皮肉った言葉である。

「ピサの斜塔」として広く知られている塔も、ピサ大聖堂付属の鐘塔である。大聖堂本体の建設が始まったのは11世紀、都市国家が乱立するイタリアにあって、ピサはヴェネツィア、ジェノヴァ、アマルフィと並ぶ海洋国家として栄えていた。海運によってもたらされる豊富な大理石を利用して建造された聖堂は、当時のヨーロッパ全域で流行していたロマネスク様式をベースとしながらも、特に聖堂正面(ファサード)を飾るアーチの連続に独自性を見せている。ピサと隣町のルッカで特に栄えたこの様式を、ピサ=ルッカ様式と一般的に呼ぶ。また同時に、大聖堂の建築の一部として、地中海沿岸各地から略奪されてきた美術品も組み込まれており、海洋国家としてのピサの軍事力を示すものとなっている。

鐘塔である「ピサの斜塔」の建造がはじまったのは続く12世紀後半のことである。大聖堂のファサードと同じように、鐘塔でも、ピサ=ルッカ様式に特徴的なアーチの連続が用いられた。当初の予定では、現在よりも高く、そして当然、鉛直に伸びる塔になる予定だったが、建造後間もなく地盤沈下による傾斜が始まった。度重なる工事の中止を挟んで進められた塔の上層の建造では、全体のバランスをとるために、傾斜とは逆方向に傾きがつけられた。そのため、全体としてはバナナのような形状の塔となっている。

困難な工事を経て、傾きながらも塔が完成に漕ぎつけたときには、既に14世紀の後半になっていた。このころまでに、大聖堂と鐘塔以外に、人々に洗礼を施すための洗礼堂、墓所となるカンポサントなども建造されていた。ユネスコの世界遺産リストには、大聖堂に関連した建築群を含めて、「ピサの大聖堂(ドゥオモ)広場」として登録されている。

伊藤拓真(西洋美術史、イタリア・ルネサンス美術)

大聖堂と背後の斜塔

斜塔の全体図