伝説から歴史へ ―甲骨文字の発見と殷墟―(中華人民共和国)

2013年08月18日

殷墟(いんきょ)は、現在の中華人民共和国、河南省安陽(あんよう)市にある、紀元前17~11世紀ころに存在した殷(いん。商とも)王朝後期(紀元前14~11世紀ころ)の遺跡である。この殷王朝は、ながらく伝説上の存在と見なされていた。ところが、この殷墟の発掘と、文字史料の発見・解読により、実在が証明された。その経緯はこうである。

時は清(しん)王朝末期の1899年、王懿栄(おういえい)は、マラリアの薬として竜骨という漢方薬を購入した。すると、王の幕客であった劉鶚(りゅうがく)が、竜骨に模様のようなものが刻まれていることに気づく。王と劉は、これを文字だと推測し、竜骨を広く買い集めて研究に没頭、これが殷王朝時代の文字だと判明するのである。そしてこの文字は、亀の甲羅や牛などの骨に刻まれていたことから、甲骨文字(こうこつもじ)と呼ばれるようになった。漢字のご先祖様である。

ところが翌1900年、世界史でも有名な義和団事件が勃発し、日・英・米・露・独・仏・伊・墺の八国は北京に迫った。西太后ら時の実力者はさっさと西安へ逃げてしまい、王懿栄は義勇軍の長官を命ぜられたが、八ヶ国連合軍が北京に入場すると、自害して果てた。劉鶚は難民救済の方法に問題ありとして流罪になり、配流先で亡くなった。

劉所蔵の甲骨はその後、羅振玉(らしんぎょく)の手に渡ったが、今度は辛亥革命が起こる(1911年)。翌年に中華民国が成立すると、羅振玉は甲骨コレクションを携えて日本に亡命し、研究を続けた。彼は、甲骨文字の刻まれている竜骨が安陽小屯の出土であることを突き止め(竜骨売買の独占をもくろんだ商人が、出土地を偽っていた。劉鶚も騙されている)、同地を殷王朝の遺跡と推定した。彼の娘婿である王国維(おうこくい)はこれを継承し、甲骨文字の解読結果と『史記』殷本紀の比較検討を詳細に行い、両者の王位継承に関する記述がかなりの精度で一致することを論じ、甲骨文字の史料的価値を証明した。

けっきょく、安陽――すなわち殷墟――の発掘は1928年に始まるが、日中戦争の勃発で一時中断、中華人民共和国が成立した翌年の1950年に再開された。同地からは大量の甲骨文字や大型の墳墓(そしておびただしい殉死者の遺体)などが多く発見され、殷王朝後期の遺跡とする説が有力である。中でも、1977年に発見された墓は、殷の22代目の王・武丁(ぶてい)の妻・婦好(ふこう)のものである可能性が高く、重要視されている。だが、出土した甲骨文字も未解読のものは多く、その全貌解明はこれからである

田中靖彦(中国史、中国地域文化)

「婦好」像

甲骨文字(egorgrebnev)