シリアの首都ダマスカスの北東215キロメートルにあるパルミラの遺跡、これは1980年に世界文化遺産に登録され、2013年には危機遺産に登録されています。ローマ様式の建造物が多数残っており、ローマ式円形劇場、浴場、四面門などで有名です。パルミラと書きましたがラテン語風にパルミュラと言う場合もあります。このパルミラは紀元前1世紀から紀元3世紀までの間、主にローマ領として栄えた最古のオアシス都市のひとつであると言えます。パルミラはその位置に恵まれていました、シリアとフェニキア、メソポタミアとペルシアを結ぶ要の位置にあり、シリア砂漠を横断しなければならない隊商隊にとってとても重要な中継地であったのです。ペルシア風、ローマ風、アラビア風というさまざまな文化を吸収し、パルミラは独自に発展しました。その中でも特筆すべきはベル神殿で、約210メートル四方という遺跡中最大の物です。さらに記念門から続く通りは列柱通りで、両側に並んでいたコリント式列柱750本の内150本が今も残っており、非常に重要な文化財として注目されています。
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大学推奨資格
パルミラの遺跡(シリア)
2013年10月11日
避暑山荘~外交の舞台となった離宮(中華人民共和国)
2013年09月22日
北京から東北方向に200キロ余り、万里の長城を越えた先に、承徳はある。承徳は熱河とも呼ばれた場所で、緯度が高く標高も300メートルを超えるため、気候は冷涼である。ここには清朝時代に建設された避暑山荘があって、今も世界中の人々を迎え入れている。清朝は元来長城の外側に暮らす満州族が立てた王朝であり、承徳はいわばふるさとの地にあった。
カリブ海の難攻不落要塞都市(アメリカ合衆国、サン・ファンの歴史地区)
2013年09月11日
コロンブスが「発見」した折に、緑豊かで果実が実るその豊かさに叫んだ、プエルト(港)・リコ(豊か)にその名が由来するという、プエルト・リコ(現在アメリカの準州)。
スペイン植民地時代を象徴する都市、サン・ファン歴史地区はスペインが総力挙げて築いた港湾・要塞都市である。世界遺産に登録された植民都市のなかでは、先住民の遺産をその都市機能、空間利用に引き継いだ都市が多い。しかしこの植民都市はそれらとは異なり、コロンブス以前の足跡がたどれない。ヨーロッパ人到達のもたらした影響力の大きさを残す負の遺産である。
ハンザの夢の跡(ブリッゲン、ノルウェー)
2013年08月26日
ノルウェー南部の街スタヴァンガーからベルゲンへ行く最も早い交通手段は船である。スタヴァンガーからベルゲンは地図で見るとさほど遠くないし、完全な陸続きである。ノルウェーにだって鉄道も道路もある。それなのに何故、船が最速なのか?理由はフィヨルドである。ノルウェーの西海岸には深く切れ込んだフィヨルドが連なる。そしてフィヨルドの両側は切り立った岩山であるため、陸路は大変な廻り道とならざるを得ない。だからフィヨルドの外海を突っ切って進む高速船で行くのが一番早いのだ。
伝説から歴史へ ―甲骨文字の発見と殷墟―(中華人民共和国)
2013年08月18日
殷墟(いんきょ)は、現在の中華人民共和国、河南省安陽(あんよう)市にある、紀元前17~11世紀ころに存在した殷(いん。商とも)王朝後期(紀元前14~11世紀ころ)の遺跡である。この殷王朝は、ながらく伝説上の存在と見なされていた。ところが、この殷墟の発掘と、文字史料の発見・解読により、実在が証明された。その経緯はこうである。
時は清(しん)王朝末期の1899年、王懿栄(おういえい)は、マラリアの薬として竜骨という漢方薬を購入した。すると、王の幕客であった劉鶚(りゅうがく)が、竜骨に模様のようなものが刻まれていることに気づく。王と劉は、これを文字だと推測し、竜骨を広く買い集めて研究に没頭、これが殷王朝時代の文字だと判明するのである。そしてこの文字は、亀の甲羅や牛などの骨に刻まれていたことから、甲骨文字(こうこつもじ)と呼ばれるようになった。漢字のご先祖様である。