難聴疑似体験をして

2016年09月26日
恵泉女学園大学学長 大日向雅美

夏季休暇も終盤となった9月15日、筑波大学付属聴覚特別支援学校高等部普通科の鈴木牧子先生を講師にお迎えして、学生ラウンジで「難聴疑似体験」の講座が開かれました。

聴覚障がいは見ただけでは十分にわからないだけでなく、一般の聴者に誤解も少なくないというのが、鈴木先生のお話でした。
とくに、聴覚障がいから生まれる「社会的なバリア」について、ほとんどの人が理解していないことを先生は繰り返し強調しておられました。

「社会的バリア」という疎外感と孤独感

疑似体験としてまず始められたワークは「読唇」でした。一瞬、音が消えた教室の中で、先生の口元を必死に見つめましたが、私にはほとんど理解できませんでした。
その時の焦り...。
やがて参加者の中から、すらすらと先生の言葉を復唱する人が出たときには、焦りだけでなく、その場にいたたまれないような孤独感を味わいました。
皆が共有していることが分からない不安と一人、取り残された気持ちです。
これがまさに難聴の方々が日々、味わっていることなのだと、一瞬とはいえ実感できた思いでした。

ことばを理解するのは"一種の賭け"

鈴木先生がご用意くださった資料の中に、読話に関することとして、次のような一文が紹介されていました。

"唇をしっかり見つめると言うことは、唇の形自体よりもその後ろにある相手の顔やからだの微細な動きを感じとるということになる。ペナルティ・キックを迎えるゴールキーパーのように、ある可能性に向かって身構えるのだ。そして、はりつめた、ある意味が一挙に結晶し、姿を現す。相手のことばをとらえ、理解することは、だから、常に一種の賭けである。ことばとは決して一定の意味を運ぶ安定した通貨ではなく、一つの結晶作用だ。

(竹内敏晴著『ことばが劈(ひら)かれるとき』(1975 思想の科学社)

私もこれまで何人かゼミや講義で難聴の学生を受け入れてきました。
その都度、ノートテイクの学生たちがサポートにつき、学生課や教務課からも指導に際して丁寧な教示を受けてはいました。でも、果たしてここにあるような結晶作用という心構えで臨んできたか、反省の思いです。

いろいろな学生がいることへの感謝

当日、参加した職員の感想です。

  • 想像は働かせているつもりですが、やっぱりその立場になってみないとわからないことが多く、今、自分が軽難聴という立場にたってみると、障がいのある学生さんたちが、こんなことにも苦労を感じていたんだろうなと、反省することがたくさんです。
  • 本当にたくさんのことを学び、考える機会になりました。当日、講義くださった鈴木先生が、特別支援学校から送り出した学生が恵泉で明るく強く学んでいるとおっしゃってくださいました。
    いろいろな学生が恵泉にいてくれることは、本当に宝のようなことだと思います。

今週から秋学期がスタートします。難聴疑似体験で学んだことは、障がいのある学生への対応としてはもちろんですが、キャンパスに集うすべての学生に対する姿勢として、改めて胸に刻みたいと思います。