イタリアンバール「晴ればーる」オーナー
1965年、東京都生まれ。立教大学法学部卒業 。2001年米同時多発テロで夫を亡くす。当時お腹の中にいた三男を含む三兄弟の母。帰国後、悲惨な事件ではあったが、価値ある体験も多く、それらをまとめた手記を出版(「天に上った命、地に舞い降りた命」マガジンハウス)。また、そうした苦難を乗り越えた体験を生かすべく、傾聴を主とする心のケアの専門職「精神対話士」の資格を取得し、活動を続ける。2015年春、より多くの方たちの心の拠り所となるような、みんなの居場所を作りたい!という思いからイタリアンバール「晴ればーる」を東京・麹町に開店。美味しいお食事とお酒をそろえて、太陽みたいにぬくっとあったかい、そんなお店作りのために日々奮闘中。
イタリアンバール「晴ればーる」
学長Blog★対談シリーズVol.10 この方と『生涯就業力』を語る
2017年05月29日
恵泉女学園大学学長 大日向雅美
今回のゲストは、お料理が大好きでイタリアンバール「晴ればーる」オーナー・杉山晴美さんです。9.11米同時多発テロで夫を亡くされた時は第三子懐妊中。その悲しい出来事をご著書にされ、TVドラマ化されたことを記憶されている方も多いことと思います。6年前に精神対話士となって活動する一方、一昨年春、都内に欧風料理のビストロをオープンされました。大きな心の痛みをバネに、3人の息子さんを育ててこられた杉山さんにお話を伺いました。
第10回ゲスト:杉山晴美氏
9.11米同時多発テロで夫を亡くし、第三子懐妊中は絶対安静。
---杉山さんとは13年ぶりの再会ですがお元気そうで何よりです。お辛いこともおありだったことでしょうが、9.11NYでの体験を若い学生たちに今一度お話し頂けますか?
2001年9月11日はNYに住んでいました。夫は当時ワールドトレードセンター(WTC)にあった富士銀行勤務でした。翌春3行が合併し「みずほ銀行」として統合予定でNY支店に働き手として呼ばれ、もっとも忙しい時期でした。当時3歳と1歳の息子とお腹には妊娠4か月になったばかりの赤ちゃん。私たちは川向うのニュージャージー州に住んでいて、あの日は橋も道路も封鎖されマンハッタン側には行けず、丸2日間家で帰ってくると信じて待ち続けていました。きっと何かの理由で戻れずにいるだけで、ひょっこり夫は戻ってきそうでしたから。
---本当に大変でいらっしゃいましたね。小さなお子さんがお二人いらしたうえにお腹には赤ちゃんも。事件の後すぐ日本に戻ってこられたのですか?
行方不明のままで日本に戻ってしまったら、何かの事実が明らかになった時には、なかなかNYまで飛んで来られませんし、NYに行って1年未満で事件に遭ってしまった。「産んで帰る」という強い思いもありましたので、NYに残りました。2002年春に第三子出産し、ほどなくして夫の遺体の一部が見つかりました。
---日本のご家族も心配されていたのではありませんか?どうやってその難局を切り抜けたのですか?
第三子を授かって間もなくしてあの事件があり、ショックと同時に体を酷使したことで切迫流産となり早々に絶対安静を通告されました。日本から母が飛んできて支えてくれた他、友人にも助けてもらいながら過ごしました。人に頼まざるを得ない状況で、差し出された手を見つけて掴んできてよかったですし、頼って甘えた経験があるからこそ、動けるようになった今は自分がお返しをしようと。子育てしている時に差し出された手にすがった経験があると、自分が返せる時に誰かに手を差し伸べられます。順番にそうなるといいと思います。
「死ぬまで何があるかわからない」という強い母の背中。
---苦しくても差し出された手を掴もうとしない人もいます。人を信じたり甘えたりすることはとても大切だと思いますが、それはどうしたら培われるものでしょうか?
むしろ私も甘え下手でした。生い立ちに関係あるのですが、3歳で父を亡くしています。昭和一桁生まれの母が女手一つで一人娘の私を育ててくれました。母は強くて泣き顔ひとつ見せない人でしたから、甘えることがないまま育ってきました。そういう私が極限状態になって、周囲に甘えざるを得ない状況になったので、それはとてもいい経験になりました。
---辛いという言葉では到底表現できないような体験だったと思いますが、それがあったからこそ変わられたということなのですね。ただ、同じシングルマザーでいらしたとしてもお母様と晴美さんの生き方は少し違いますかしら。
そうですね。「私はこんなに強くはない」と思ってきましたが、米同時多発テロのような事件に遭って、やっぱり私も母の背中を見て育ったのだなぁと実感しました。事件後しばらくして、一時封鎖されていた空港へ日本から第一便到着した様子をテレビで生中継を観ていたら、真っ先に降りてきたのは母でした。銀行の方がマスコミ報道関係者から家族を守ろうとガードしてくれていたのを「何もコソコソすることはない!」と振り切って(笑)。そんなゴッドマザーの凛とした生き様を私も受け継いでいるようです。70歳過ぎてから母には苦労を掛けてしまいましたが感謝しています。
---お母様は晴美さんにどんな言葉を掛けてくださいましたか?
今でも忘れられない一言が「死ぬまで何があるかわからないわね!」...慰めや癒しの言葉ではなく、シャキッと言われました。母は東京で独り暮らしをしていましたが、私が夫と結婚して子どもが生まれて独立したことに安心していたのが一転、NYへ駆けつけてくれました。私もこの先、死ぬまでまだ何があるかわからないなぁと肝に銘じた記憶があります。そんな強い母ですが、今年になってクモ膜下で倒れてしまい、今は入院中です。私のことすらわからなくなってしまって...。たくさん恩があるので、できる限り看たいと思っています。
3人の子どもたちを育てながら、書くことで救われた。
---NYで第三子を無事に出産されて、その後お子さん3人を連れて帰国されてから、どのように過ごしていらしたのですか?
長男が4歳、次男が2歳、三男が0歳でしたので、実家のある渋谷区に戻って生活が始まりました。「3人バラバラなら保育園に入れる」と行政担当者には言われ、3人一緒の受け入れ先が全然なく、結局外で働くことはできませんでした。家でできることを何かしようと始めたのが、その時の体験を執筆することでした。パソコンを開くとメールが山のように入っていて、夫や私の友人知人をはじめ、家族や親戚などたくさんの人が心配して連絡をしてくれたのですが、一つひとつに答えることが難しかったので、同報メールを書くことによって私自身の心の内が整理され、気づきも得られました。
---それがご本になって、ドラマ化もされたわけですね。事件の直後によくここまで書かれましたね。
記録としてまとめて書き残しておけば、子どもたちが成長してあの事件のことを知りたくなった時に読めるのでは?と思い、時間を見つけて書き綴りました。NHKのニュース番組で執筆しているのを取り上げてくださって、それを観たマガジンハウスの編集者の方が「本当に書く気がありますか?それならこの倍は書いてもらいます」とすぐに連絡をくださったのです。小さな子3人いたので日中は書けませんでしたが、夜中に書き始めると言葉がどんどん溢れて。でも、あの事件をまだ語れずにいる方もおられます。私にとっては何より文章にすることによって救われました。
---本の行間からそのお気持ちが溢れていると思いながら読ませていただきました。書くというご経験がやがて話を聴くというお仕事へとつながっていったのでしょうか。
しばらくは子どもたちを育てることを優先して外に出られない時間が長かったのですが、長男が小学6年生になる時、民間のメンタルケア協会と出会いがあって精神対話士の資格を取得しました。これまでたくさん受けてきた御恩を返す意味でも活動を始めました。ご家族や身近な方を突然失われた方のお話を伺うこと。じっくりお話を聴くだけで体調不良が改善される方もいます。医師だと病名を付けて診断して薬を処方することになりますが、聴くことを専門にする人を作ってみよう、という目的で協会が作られたそうです。私は言葉にできることもできないことも、すべて共感して聴く「傾聴」が仕事です。この活動を始めたのは、事件から10年経った頃でした。
どんなに苦労しても、その経験が強くする。
---事件から今秋で16年経ちます。晴美さんは悩む方々の心に耳を傾ける「傾聴」という活動をされる一方で、一昨年春には欧風料理のビストロを都内にオープンなさいました。
お店はオーナーという形で携わっています。もともとお料理作ることやおいしいものを食べることが大好きで、人の話を聴ける場があるといいなと思っていたことが「晴ればーる」というお店となって実現しました。本を書いて、いまだに同じような体験をされた方から手紙やメールをもらう機会があります。辛い体験を話す場があるようで無い。語れる場を求めている人がいっぱいいる、と気づいたからこそ創りました。
---語りたい方がいる一方で、16年経っても語れない方もいる。晴美さんは書くことができてよかったですね。
私はたまたま書くことで表現できましたが、立ち直り方は人それぞれです。語れずにいる方に「本を出してくれてありがとう」と言われたこともあります。表現できる人がすればいいし、あの事件が風化しなければいい。私は父を幼少期に亡くしていることもあって、10代の頃から死生論を考えていました。自分を深く掘り下げて見つめ、偽善者だと悩んだこともあります。同じ年頃のみんなが将来どんな職業に就こうかとワクワク語っている傍らで、何のために自分は生きているのか?と徹底的に哲学をしていました。でも、それが9.11の事件で支えになりました。
---恵泉女学園大では女性の生きる力として「生涯就業力」という理念を掲げています。創設者の河井道先生は『自分が輝くことは身近な人を幸せにすること。尽くすことである』と言われています。晴美さんから学生の皆さんにメッセージをお願いできますか。
悩んだり壁に当たったり苦労しても、その経験が強くするのです。答えの出ないことは考えたくないものですが、考えることをあきらめないでほしい。私にとって10代は、辛かったですし自信のない時代でした。でもそれは裏を返せば、謙虚さにつながります。自信たっぷりで学生時代を過ごすより、自分を批判的に見つめて、答えが見つからないことを考え続けてほしい。私の実感から、その言葉を贈ります。