『ボヘミアン・ラプソディ』と"哀しみの分かち合い"と
2019年01月07日
恵泉女学園大学学長 大日向雅美
新年も開けて7日目を迎えました。今日から本格的な仕事始めの方も多いことでしょう。
大学も今日が冬休み明け授業のスタート日です。学生たちはどんな年末年始休暇の思い出をもって登校することでしょうか。
私のこの冬休み休暇は久しぶりに見たかった映画やドラマを思う存分、見ることができました。
なかでも圧巻は『ボヘミアン・ラプソディ』でした。1973年にデビューしたイギリスの伝説のロックバンド「クィーン」のリードヴォーカルだったフレディ・マーキュリーの半生を描いた映画です。もっとも、私にとってこれまでロックは縁遠い世界でした。何人かの知人からの強い薦めがあって映画館に足を運びましたが、観客の年代幅の大きいことにまず驚かされました。
私にこの映画を薦めてくれた知人たちと同様に、かつて青年時代に「クィーン」を愛し、今は中高年の時を迎えている人々が大半かと思ったのですが、その世代と同じくらい、いえ、それ以上に20代から30代の若い世代の観客で映画館が埋め尽くされていました。
そして、もう一つの驚きは、映画がエンドロールを迎えたときに沸き起こった拍手です。
席を立つ人はほとんどなく、皆、席に残って静かに拍手を送っている・・・。 最近の映画館にはあまりない光景でした。ラストシーン「LIVE AID(ライヴ・エイド)」の激しく熱狂的なパフォーマンスと対照的な、温かさに充ちた静かな拍手でした。
いったいなぜ?何の拍手?と考えて浮ぶのが、フレディ・マーキュリーの孤独な姿です。
アフリカに生まれ、インドで育ち、イギリスに移住したペルシャ系の家系、容姿へのコンプレックス、そしてLGBTと晩年にHIVへの罹患等々、当時のイギリスを思えばマイノリティとして生きる彼の孤独と哀しみがどれほどのものであったか、想像に難くありません。そんな彼だからこそ、人々との絆を懸命に求める叫びが聴く人々の魂を揺さぶる世界最大級のラブソングとなったのではないか・・・。孤独の悲哀を胸に秘めて生きているのは、フレディ・マーキュリーだけではないはず・・・。人は誰もがそれぞれに哀しみと苦しみに苛まれる孤独な時をもっている、一見、元気はつらつとしているような若い世代も同じ・・・。世代を超えた共感の拍手に込められたもの、それは哀しみの分かち合いだったのかもしれない・・・。
そんなことを考えながら夜道を家路に向かっていたとき、ふと浮かんだのが、"オムソーリ"と言う言葉です。『「分かち合い」の経済学』(岩波新書)の著者、神野直彦先生から折に触れてうかがっていたこの言葉は、"哀しみの分かち合い"という意味。「人生には喜びも多いけれど、それ以上に哀しみが多い。哀しみを分かち合ってこそ、社会は豊かになれるということです」と、スウェーデンの社会福祉の心を語る神野先生の声が聞こえてくるようでした。
本年は、かねてよりこのブログで書かせていただいている、女性活躍時代に生きる真の女性の力としての「生涯就業力」を、いよいよカリキュラムに具体化すべく、目下全学的にその作業にいそしんでいるところです。昨年、実現した梨花女子大の「分かち合いリーダー」との協定締結の具体化の実現も本格化する年となることでしょう。
女性が「生涯就業力」を磨き、周囲の方々との絆を大切にしながら、"しなやかに、凛として"生きるために、何を、いかに分かち合うべきなのか、その具体化・可視化には未解決の課題も少なくありませんが、『ボヘミアン・ラプソディ』に贈られた世代を超えた共感の拍手に、その一つの、そして確かな答えを得た思いです。