台風に倒れたこぶしの木と無償の愛と~敬老の日に~
2019年09月16日
恵泉女学園大学学長 大日向雅美
先週は台風15号の襲来で、関東地方は交通機関をはじめ家屋や田畑に大きな被害が発生しました。被害に遭われた皆様に心からお見舞申し上げます。
多摩キャンパスも一時期、停電などで職員が対応に追われましたが、最も大きな、そして悲しい被害は、三日月花壇のこぶしの木が根こそぎ倒れてしまったことです。
元気だったこぶしの木
朝夕、登下校する学生たちを迎え、見送ってくれていた大木の倒れた姿を見て、若い頃、親しんだ絵本『おおきな木』(作・絵:シェル・シルヴァスタイン 訳:本田錦一郎 篠崎書林)が思われてなりませんでした。
真っ白な頁に白黒の線と短い言葉だけで描かれたシンプルな絵本です。
そこに登場するのは1本の大きなりんごの木と男の子だけです。
男の子は毎日、りんごの木にのぼり、実を食べたり、木陰で休んだりしていましたが、大きくなるとりんごの木には近づかなくなってしまうのです。
たまに訪ねてくるのは、遊ぶお金がほしい、結婚するから家がほしいと、無心をする時だけ。中年になった彼は、人生の憂さから逃れるために舟がほしいとまで言うのです。
そのたびにりんごは、実も枝も、幹までも、自身のすべてを与え、とうとう最後は切り株だけになってしまうのですが、愚痴一つこぼしません。
やがて、かつての男の子が老いた姿で戻って来た時には、切り株だけになったわが身を差し出し、そこに彼を腰かけさせて、それでりんごの木は「うれしかった」とつぶやくのです。
自分がしたことに特段の見返りも求めず、ただ尽くすりんごの木の姿に無償の愛の真髄を見る思いがした一方で、果たしてりんごの木の行為は男の子のためになったのだろうか、なによりも私は母としてここまで無心に尽くせるだろうかと、感動と疑問と自戒の念が入り混じった複雑な心境でこの絵本を手にしていました。
時を経て、私自身も晩年のりんごの木に近い姿となった今もなお、ここまで尽くしてくれるりんごの木に、なぜ男の子は感謝やいたわりの一言もかけないのかとの思いは消えません。しかし、切り株に腰を下ろす老いた彼の姿から、若き日の私には聞こえなかった無言の感謝の言葉が聞こえてくるような気もします。
学生時代に愛読したE.フロム(E.Fromm)の『愛するということ』の一節、「愛とは与えるもの」というメッセージもまた確かに聞こえてきます。
殺伐として合理的すぎる世の中に心さみしさを覚えるのも、自身の年齢のせいかもしれませんが、せめて大切な人を思う気持ちはりんごの木のようでありたいとの思いが、今、改めて強くなっています。
今日は敬老の日です。
わが子や孫たちをりんごの木のような気持ちで見つめつつ生きてきた人々の少なくないことを思います。
倒れたこぶしの木の再生は難しいとのことですが、何らかの形での再利用を考えてみたいと思います。