きれいごと? NHK朝の連続ドラマから

2021年10月25日
恵泉女学園大学学長 大日向雅美

今回はテレビドラマを題材に、考えてみたいと思います。
皆様はNHKの朝の連続ドラマ「おかえり モネ」をご覧になりましたか?この5月からスタートして今週、最終回を迎えます。

これまでの朝の連続ドラマは主人公の女性の波乱万丈の人生を幼少期から晩年まで描くものが大半でしたが、「おかえり モネ」はそれとは趣がかなり異なりました。主人公が高校生のときに始まって20代前半まで、終始「今」にフォーカスしたドラマでした。セリフもシナリオの展開もゆったりで、ドラマチック性は薄く、丁寧に日常を描いていました。それだけに当初は「つまらない」「平板だ」という声も少なくなかったようですが、主人公とその周囲の人々が織りなす日々の出来事に人々の胸うつシーンが多く、次第に人気を博していきました。私も途中から魅せられて毎日楽しみに見ておりましたが、心に深く残ったシーンがいくつもありました。

舞台は東北の気仙沼湾の中の小さな島。あの大震災3.11の傷を人々が心の奥深くに抱えながら、懸命に生きています。主人公のモネ(本名:百音(ももね))は3.11のときに高校生でしたが、たまたま受験で島を離れていて、自分は無事だったこと、友人や大切な人たちとその時を共にできなかった心の痛みから地元にいづらくなります。それでも地元の役に立ちたいと願って気象予報士となり、東京のテレビ局で活躍するようになりますが、なお身近な大切な人たちの役に立ちたいとの思いを捨てきれず、地元に根付いた気象予報をするために、島に帰ってきて小さなラジオスタジオで働いています。
そんなモネを地元の人たちは歓迎しつつも、東京で活躍していたモネがなぜ帰ってきたのか訝るのです。とくに、幼馴染みの亮は辛辣でした。「だれかの役に立ちたいなんて、きれいごとにしか思えない」と厳しい言葉を向けるのです。

「だれかの役にたちたいなんて、きれいごとだ」と、なぜ亮は言うのでしょうか?彼は高校を卒業して漁師となっていますが、母親を津波で失い、父親は地元で右に出る者がいないという凄腕漁師でしたが、津波で船も妻も失って荒んだ生活に陥って立ち直れない。一家バラバラ状態で父親との関係も崩れてつらい日々を送っている亮ですが、普段はやさしい笑みを絶やしません。心配する周囲の人たちに「俺は大丈夫だから。心配しないで」と言い続けるのでした。

そんな亮をじっと思い続けているのがモネの妹の未知。でもどんなに思っても、亮が心を開いてくれないことに苦しんでいます。ある日、漁に出た亮の船が嵐に巻き込まれて生死を彷徨います。そんな亮を夜通し案じ続けた未知の元に無事帰ってきた亮ですが、またもや笑みをたたえて「俺は大丈夫だから。心配しないで」と言うのです。

その言葉に泣き崩れる未知のかたわらにいたモネが、「亮君、もう笑わなくていい。優しい笑顔で大丈夫と言われるのは、かまわないでくれと言われているのと同じだよ。どれほどその言葉に傷つく人かいるか」と迫りました。いつもはおだやかな亮ですが、そのときはじめて「俺の何がわかるんだ。わかりっこない。だからかまわないでくれ」と激怒するのです。モネは静かに言います。「たしかに、亮君の本当の苦しみは分からない。それでも、その亮君をずっと思い、そばに居続けた人がいる。あなたをけっして一人にはしなかった人がここにいるのよ」と妹の未知を指し示して言うシーンがありました。

「人の役に立ちたいなんてきれいごとだ」と言い切る亮の心の闇の深さと共に「かまわないで」という言葉に潜む残酷さに気づかされたシーンでした。マルコによる福音書5章1節から8節に描かれている「かまわないでくれ」という叫びを悪霊の叫びだとしてイエスが追い払われる場面が思い出されました。

生きていくうえで、私たちはつらいことさみしいこと、さまざまにぶつかります。一人でうずくまっていたいこともあります。でも、そんな私たちを誰かが見守り続けてくれている。そんな人たちと出会い、関わり、さまざまな行き違いを経験しながら、それでも思いあい、受け入れあいながら生きている。わかりあいたい、わからなくてもせめて、あなたを一人にはしたくない、助けになれたらと願うこと、それはけっして「きれいごと」ではない、私たちが人であり続けるためのなにかがそこにある、と私は信じたいと思います。"自分を大切にすると共に、大切な人のために、地域や社会のために尽くす力である「生涯就業力」の意味を改めて考えさせられたここ数日の「おかえり モネ」でした。

さて、未知と亮の関係の行方は? 最終回が楽しみです。