KPKAの活動と広島研修報告
2024年02月05日
恵泉女学園大学学長 大日向雅美
先週は、本学の『学内表彰』についてご報告いたしました。
そのうちの特別賞(団体部門)の一つ「恵泉女学園大学平和紙芝居研究会KPKA(クプカ)」から、昨年末に広島の平和記念資料館をはじめとし、その付近の碑巡り、さらに江田島の旧海軍兵学校などを回って、被爆者の方との対話を重ねた研修報告が届きました。
紙芝居を携えて地域に出かけ、「愛」「いのち」「平和」を大切にする心を育て合う目的で発足したKPKAの活動は、本学の教育の特色を発揮したものと言えましょう。KPKA顧問の岩佐玲子先生から、「被爆者の方々の苦しみはもちろん、戦争弱者である外国人や子ども達、若者たちのことにも思いを致すことのできる旅となりました」とのメッセージと共に、学生たちの感想が届きましたので、ここにご報告させていただきます。
岩佐玲子(教育学)
KPKAの活動の特色は、平和紙芝居『二度と』(松井エイコ作)を使った平和授業を行うという点です。学生が授業者となって小中学生に戦争の歴史、核兵器の恐ろしさ、平和の尊さを伝えると共に、直接的暴力(戦争)のない社会はもちろん、構造的暴力(差別、抑圧、貧困など)のない平和な社会を共に創ろう、と子どもたちに呼びかけます。伝えてきたメッセージは、「平和の語り部になろう!」「微力だけれど無力ではない」です。この一年間で活動範囲は多摩市内7校、21学級に広がり、2月には横浜市立中学校1年生6学級に平和授業を届けることになっています。そこでKPKAの学生達は戦争についての学びをもっと深めようと、12月26日から28日まで2泊3日の広島研修に赴きました。
一日目には広島市内のブックカフェ「ハチドリ舎」で被爆者岡本忠さんと膝を交えて3時間以上対話しました。淡々とした語り口から伝わる岡本さんの人生の辛さと苦しさに学生たちは涙しながら、岡本さんから託された平和のバトンを子どもたちに手渡すことを約束しました。二日目は、平和記念資料館と旧海軍兵学校を見学し、三日目は、広島在住の牧師であり平和学を学んでいらっしゃる月下星志先生(宇野みどり先生:本学キリスト教教育学:の後輩にあたる方)が、広島市内の原爆遺構や慰霊碑を案内してくださいました。月下先生からは、戦争の被害だけでなく加害の事実にも目を向けることの大切さを教えていただきました。
以下は、参加した学生6名の報告文の抜粋です。
6名の出身地は東京、栃木、山口、鹿児島、フィリピン、韓国と様々で、それぞれの視点から気づきを綴っています。なお、この度の広島研修は、東京IIゾンタクラブ様ならびに匿名の方々からのご寄付によって実現できました。この場をお借りしてお礼申し上げます。
参加した6名の学生たちの広島研修レポート(こちらをクリックすると読めます)
(略)今年は台風の影響で長崎研修に行くことができなかった。しかし、沢山の方の協力があったおかげで年末にKPKAの広島研修が実現した。(中略)私は幼いころから感受性が強く、戦争についての話題は「怖い」「聞きたくない」「知りたくない」という気持ちが強く、戦争についての話題から逃げていた。しらなければ怖いことも恐ろしいこともないと思い、知らなければいけないと思いつつ、目を背けていた。しかし、KPKAで平和学習を行い、戦争や平和について学び、今まで目を背けていた戦争の歴史について学ばなければいけないという気持ちが強くなっていった。実際に広島に行き、多くのことを学び考えることが出来た。1日目にハチドリ舎にて被爆体験者の岡本さんの「原爆は昔話ではない」という話や被爆体験を話す伝承者としての想いや考えなどを聞き、自分の心の中で怖いと思い、どこか他人事だった戦争について、自分事のように考えられるようになった。(中略)初めて広島を訪れ、知らない事ばかりだったが、今回の広島研修の3日間を活かしながら、この先の平和について自分なりの答えを見つけ出していきたいと思う。KPKAとしてこれから活動するにあたり、多くの人に戦争について関心を持ってもらうようにするにはどうすればいいのか、自分の考えや意見をしっかり持ち、平和のバトンを渡せるように試行錯誤していきたいと思う。
(東京都出身 国際社会学科2年 M.K.)
私はこれまで、原爆が落ちた時に実際に広島で生活していた方のお話を直接お聞きしたことがなかった為、お話のすべてに圧倒されてしまいました。特に、岡本さんがおっしゃられていた「私がここで話していることは奇跡です。母が生きていたことも奇跡。倒壊した家から脱出したことも奇跡。全ての奇跡が重なって、ここにいます」という言葉に胸を打たれた。そして、岡本さんのお母様や、レストハウスの唯一の生存者の方の様に当時の凄惨な状況を生き延びた方々は、その奇跡を伝承という形で活かし、後世に遺すことで犠牲者の方々の生きた証を護られたのだな、と個人的に捉えました。 また、核兵器という物の上から押さえ付けるような感情の無い暴力の恐ろしさを改めて感じました。 今回、岡本さんのお話で沢山のことを学ばせて頂きましたが、思い出したくもない話したくもない悲惨な過去をそれでも思い出し、伝え、残してくださった被爆者の方々の勇気と想いに改めて感謝の気持ちでいっぱいです。 受け取ったバトンを必ず引き継げるように、これからも活動を続けていきます。
(鹿児島県出身 日本語日本文化学科4年 M.M.)
私は、大学に入ってからクプカというサークルに入り、平和について考える機会が増えた。私自身、小学校の宿題で曾祖母から戦時中の話を直接聞いた経験があるが、当時の私は勉強に関心がなく、どんな話を聞いたのか覚えていない。ハチドリ舎で岡本さんのお話を伺った際、岡本さんのお父様、叔父様のように戦時中の辛く苦しい経験を語らない人は多いと知った。私は曾祖母の話に真剣に向き合えずに失礼なことをしたんだ、とこの歳になってから思い出し、気づいたら涙が出ていた。(中略)私はこの3日間で非常に成長したと感じている。今まで知ることのなかった、知ろうともしなかった事実がこんなにもあったことに胸が苦しくなった。私が広島に研修にきた目的は戦時中の体験を実際に聞いて、新しい知識をつけることだったが、それ以上にこの3日間で得たものがある。それは今置かれている環境に感謝して身の回りの人を大切にしたいという感情だ。私は日常的にどこか感情が抜けてしまい、自分自身も周りのことも全てを投げ捨ててしまいそうになる時がある。しかし、広島に来てみて、とても今を大切にしたいし、人と誠心誠意向き合って生きて行きたいと感じさせられた。何がきっかけか分からないが私の心の重い扉が少し開いた感じがして、3日間が人生のターニングポイントになったと感じている。そんな学びをもとにこれからのサークル活動では、小中学生に向けて平和のバトンを繋ぐ語り部として自分にできることを真っ直ぐに届けていきたいと感じた。
(栃木県出身 社会園芸学科2年 S.A.)
小学校6年生の頃、原爆ドームと広島平和記念資料館に行ったことがあった。だが、そのときは「怖い」「暗い」という感情しかわかず、平和を伝えたいだなんて思いもしなかった。(中略)2023年12月26日から28日の二泊三日。八年ぶりに改めて原爆ドーム、資料館に行った。資料館では、被爆者が受けた痛み、苦しみ、絶望が、頭の中に流れ込んでいるような感覚が起こり、涙がこぼれそうになった。(中略)広島は人々が温かいと同時に、広島を愛している人が多いと感じた。フェリー乗り場で出会った職員の方も、ハチドリ舎の方もそこで出会った岡本さんも月下先生も、出会いを通してまちや戦争の歴史を学ぶことができた。東京にはない刺激と、自然の豊かさや温かみを思い出し、また広島に行きたい、山口に帰りたいと強く思った。地元に帰る時、新たな土地を訪れる時、様々な人と出会う中で、「ここではこんなことがあったんだよね」と、伝えられるようになりたいと思うと同時に、平和な世の中を目指すためにどうすればいいか、そう考えた時に、微力ながらも活動を行うクプカで平和を伝えて行きたいと思う。
(山口県出身 日本語日本文化学科2年 A.K.)
私は去年の夏、「多摩市こども被爆地派遣」の皆さんに同行して広島に来たので、今回が2回目でした。(中略)資料館見学の後に、江田島の旧海軍兵学校へ向かいました。構内には歴史的建物や兵士のことに関する資料が多く展示されていて、平和記念資料館とはまた違った観点から戦争を考えることができました。展示資料の後半には、特攻隊がどこで撃沈したのかという資料に「フィリピン」とあり、モヤモヤしてしまった自分がいました。実は私は日本人の父とフィリピン人の母との間に生まれているからです。「攻撃をした日本人」と「攻撃を受けたフィリピン人」としてどちらの立場で考えていくのか、戦争を考える上で新たな壁にぶつかってしまった瞬間でした。(中略)3日間、多くのことを学ぶことができたのは、関係者の皆様のご支援とご協力のお陰であると、とても感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございます。今回の研修で私は自分のルーツと戦争について悩み、壁にもぶつかってしまいましたが、それが逆に新たな視点から戦争を考えられるきっかけにもなりました。岡本さんと月下先生のお話を通じて受け取ったバトンを多くの人に手渡していけるように今回の学びと感じたことを忘れず、KPKAでの活動を通じて発信していきたいです。
(フィリピン出身 英語コミュニケーション学科3年 Y.Y.)
(略)旧海軍兵学校見学について、韓国人の立場で本当に正直な感想を書きました。ご了承ください。海軍兵学校見学の目的は若い人たちがなぜ自殺特攻をするしかなかったのか、私たちと同じような年のひとたちが戦争でどういう目にあったかを学ぶことでした。しかし、見学は全く違う方向でした。建物に入る前から戦犯国旗の朝日が見えました。それだけではなく中の記念品ショップでは朝日国旗を売って、大講堂ではそれが誇らしく飾られていました。ガイドさんは元自衛隊の方で、私たちが考えていた目的とは違って日本の軍事力、海軍のすごいところを説明してくれました。韓国人の私には複雑でつらい気持ち、そして懐疑的な感情だけがのこりました。それを聞いてなぜここに私が来たんだろうと思いました。最後に資料館にすごく具体的な資料がいっぱいあって保存状態もすごく良いことを見て驚きました。韓国人はどのくらいの人が連れ去られたか今確実な数字はわからず、推測だけです。この資料館を見ると本当に日本に強制的に連れ去られた人々の名前、数は本当にないのか、それではなく教えてくれないのかと思いながら悔しさと怒りも感じました。被爆韓国人慰霊碑にはカメがかたどられています。月下先生から、カメが向いている方向は韓国に向かっていると聞きました。そこには被爆した韓国人のために立てられたという説明もハングルで書いてありました。さらに、色んな感情の中、当時被爆された韓国人の立場について知ることができました。実は月下先生のご家族の方々は韓国の被爆者たちの治療のために募金活動をしていたのです。月下先生は、韓国人の被爆者は、韓国では日本に行ったことで差別され、日本にも韓国にも居る場所がなかったことを教えてくださいました。本当に申し訳ない気持ちになりました。そして月下先生と募金活動をしてくださった方たちに感動して、感謝いたしました。
ここで学んだことは国として見るのではなく人として見ようということです。韓国は日本に支配され言葉では言えないくらいの辛さがあります。しかし、韓国人の私も知らなかった、被爆した韓国人のために活動してくださった日本の方もいらっしゃいました。実際、植民地時代だった時にも韓国人たちを弁護してくれた"布施辰治"という弁護士もいらっしゃいました。これからも韓国のつらい歴史は忘れません。しかし、韓国の間違いの歴史も学び、韓国戦争のことも勉強して韓国人として私が伝える平和を勉強していきたいと思いました。
(韓国出身、協定留学生 K.Y.E.)
12/27(水)
早朝の広島平和記念公園 原爆ドーム前
12/26(火)
広島駅に到着
12/26(火)
ハチドリ舎での岡本様の被爆講話
12/27(水)
旧海軍兵学校(江田島)に向かう
フェリー乗り場にて
12/28(木)
広島平和記念資料館前にて月下先生と