恵泉女学園大学

学科の学び(文化学科)

2007年11月19日

文化学科は、人間学的想像力=文化力を培う、恵泉の「境界」地帯!

イスタンブール、香港、ニューヨーク、メキシコシティー、長崎、浅草・・・こうした「境界性」に富んだところが、私は好きだ。

いずれも、東西の、南北の、あるいは新旧(大陸)、あるいは古今の文化が混交し、一種、コスモポリタン的な生活様式と境界性があるからだ。

恵泉の「コスモポリタンで自由な文化混交の境界地帯」,それが「文化学科」である。

いま、私たちは、かぎりなく境界線の曖昧な時代に生きている。わたしたちが、自分が、いったい「何ものであるか」にかかわる、いく層にも被覆する人間の帰属カテゴリーともいうべき従来の分類区分に疑問符がつけられ、その境界線に根本的なゆらぎが生じている。

たとえば、国家や民族、宗教や文化といった生物学的基礎をもたない仕分けから、人種や性(男女)などの生物学的基礎をもつとされてきた分類、さらに時間軸で考えれば、生命の始まりと終わりをめぐる生/死の仕切りや、ついにはクローン技術の進歩とともに「人間」という存在の輪郭そのものまでが問われている。

そして、「遠く」の戦争が「近く」の平和を支え、「かつて」の進歩が「いま」の破壊を産み落とす。ひととモノと情報が、これまでの人間の自由・不自由さを作り出して来た様々な分類カテゴリーの壁を侵食しながら移動と接触をはかっている。

こうしたあらゆる境界が喪われていく人類未経験の時代状況は、ときに大いなる不安と刹那的な無力感を与えるが、じつは「遠く」と「近く」、「かつて」と「いま」との思いがけない結びつきから、今までにない私たち人間の可能性が開かれる好機でもある。

いまこそ、私たちの人間学的想像力=文化力がためされる時であり、その文化力なくして私たちがこの時代を生き抜くことは難しい。

こんな世界大の問いと私たちひとりひとりの生きる方法とをつなぐのは、私たちのふだんの暮らしとそれをあらためて確認する思想の仕事であり、「文化学科」はそのための人間学的想像力=文化力を培うレッスンの場である。

境界喪失の時代ゆえに、(逆説的だが)今、さまざまな知の領域においても「境界論」が有効な方法(視座)として発見されつつある。この「境界論」のまなざしを体現したのが「文化学科」なのである。

文化学科では、歴史、哲学・思想、宗教、芸術、文学、園芸といった人間文化の諸領域をそれぞれ専門分野としながら、東アジア、南アジア、アメリカ、ラテンアメリカ、ヨーロッパといった得意な専門地域を異にする教員による「文化の境界」を考える多彩な専門科目群が用意されている。

それらの科目を「旅」することで、「文化の境界」上に身を置き、そこから物事を多角的・多層的に見つめるまなざし、しなやかな人間学的想像力=文化力を身につけることになる。

2年前から文化学科が発行している学科パンフレットをご覧になられただろうか。表紙のタイトルは、一年目が「きる」、二年目が「わたる」である。はじめて見る人は皆「なんだ?これ」と思うようだが、そこには文化学科のコンセプトが体現されている。

表象を実体的現実と取り違え、流動的なプロセスである文化を実体化・空間化してしまう(たとえば「日本人」「東洋文化」「女性」「一神教」「家族」といった)「名詞の方法」が、カテゴリーの境界線に囲まれた不自由な世界のとらえ方を生み、私たちの生きる方法を妨げるのであれば、それらをほぐすやり方として「動詞」による仕分けで、流動的な「境界」上から人間文化を眺めてみようとした試みである。

この「知の越境」の旅には、言葉も必須である。そのために文化学科では、英語以外に第二外国語の習得も重視しており、さまざまな海外語学&文化研修プログラムが用意されている。すでに「イタリア語学文化研修旅行」や「韓国語学文化研修旅行」は実施されており、来年度に向けて「スペイン語学南米文化研修旅行」も現在準備中である。

文化学科 教授 笹尾典代 
担当科目:「宗教学」「比較宗教論」「文化領域研究(宗教文化)」他


写真:「比較宗教論」学外授業でのイスラム寺院(東京ジャーミー)訪問