「情報調査の技術」の授業で、ゲスト講師に恵泉OGの新聞記者をお招きしました
「服装はこんな感じですね。黒系が多いです」。
後輩たちが、出来れば聞いてみたいと考えていることを察して、授業の冒頭で藤森さんは説明をしてくれる。どんな服装で働くのか、それは学生にしてみれば、千の言葉をも超えて仕事の内容を物語る。藤森さんのその日の出で立ちは、黒いパンツスーツだ。
「社会部ですから事件取材が多いでしょう。たとえば航空機事故があったら、被害者の家族に話を聞かなければならないかもしれない。そうした突発的な場面でも対応できるように、いつも派手な色の服は着ないようにしています。あと朝回り、夜回りといって取材相手が出勤したり、帰宅するときに自宅の近くなどで話を聞くために張り込んだりすることが多いのですが、そこでも目立たない方がいいので」
藤森さんが授業に来てくださったのは、9月に組閣した野田佳彦新内閣の閣僚についての取材活動がようやく一段落した時期だったが、それでも突発的な事件に備えて常時スタンバイ体制を取っている。服装に示された藤森さんのプロ意識を学生たちは感じただろう。
話が仕事内容に移ると、最初の配属先だった長崎支局の時代の取材経験、そして、3・11の東日本大震災での活動が披露された。
「地震が起きてすぐに『千葉のコンビナート火災が大変らしい』という情報がはいって、『千葉へ向かえ』と言われ、同僚記者と二人で、会社のクルマで取材に出ました。でも大渋滞で、千葉総局へ到着したのは夜の11時過ぎ。着いた途端に、『地震の被害は、福島の方が大きいのでそっちに回ってくれ』と言われて、またクルマで移動しました。しばらく東京には帰れないため、ドンキホーテで食糧とか身の回りのものを大量に買い込んで向かいました」
普通の人はテレビや新聞で災害状況を知るが、報道の仕事は、当然のことだが、自分たちで混乱の中から情報を集めてゆかなればならない。省庁や地方支局から刻々と届けられる、「ニュース」として整理される前の様々な情報の断片を相手に格闘し、事態を確認するために記者を派遣する。しかし記者を派遣した時点での情報も刻々と変わり、そのつど取材計画は修正を迫られる。
「福島総局に着いたのが翌朝7時ぐらいでしたね。到着したら今度は『宮城の方がもっと深刻だからそっちに行ってくれ』と言われて、仙台に向かいました。午後2時過ぎ、仙台総局に着くと、今度は『女川町の被害が大きいが、まだ記者が入れていないので向かってくれ』と言われました。でも途中で日が暮れて真っ暗になり、橋が落ちていたり、道路が寸断されていて、女川町まではとても到着できる状態ではなかったのです。そこで、途中の東松島市で、避難所となっていた小学校の取材をして、そこの記事を送ろうということになりました」。
地震の時どんな様子だったのか、津波はどのように襲って来たのかーー、避難所に身を寄せている人たちに尋ねて回った。取材を終えて避難所の外へ出ると、とっくに運ばれたはずの心筋梗塞のおばあさんを乗せた救急車が、まだ校門でうろうろしていた。「まだ運ばないのですか」と尋ねると、救急隊員が「道が通れません」「また津波です」と言う。校門付近へ行くと、先ほど通ってきた道路は水没し、辺り一面にゴミが浮いている。余震で小さな津波が来たのか、地盤沈下による高潮かはわからなかったけれど、避難所に緊張が走り、藤森さんもはっとした。
「まずい、と思いました。本社の記者は自家用車での取材が出来ないので、会社が契約するハイヤーで取材を続けていたのですが、大変な経験をした人たちのいる避難所に、黒塗りのクルマで乗り付けるのは心苦しかったので、60mぐらい海寄りの場所に駐車していたのですね」
運転手さんに水が溢れてきたことを教えないと、と考えた藤森さん。携帯はもちろん通じない。クルマへ行こうとしたが、停電で避難所の外は真っ暗闇。「運転手さんを大声で呼んだけど返事がない。夜通しで運転してくれていたので仮眠を取っていたんですね。このままだと運転手さんが水に飲まれてしまうかもしれないと思って、生まれて初めてくらいに焦りました。自分の携帯電話の液晶画面の薄明かりを頼りに、校舎の内側から、金網伝いにクルマの近くへ行きましたが、運転手さんには声が届かない。足元を確かめながら、水没した道路を歩いて車まで行きました。車は少し高い位置に停車していたので、水は、ドア下すれすれの高さまでしか来ておらず、車内に乗り込んで様子を見ることにしました。しばらくすると、幸いにも潮が引き始めて、救急車が出発したので、その後ろをついて水の中を走り、仙台まで戻りました」
こうして危険と紙一重の中で続けられた取材の成果は、津波被害を受けた東北地方の状況をいち早く伝えるニュースの一つとして全国に流された。
学生たちは自分たちが目にして来た新聞記事の裏側で、記者たちがどのような取材活動を繰り広げていたかを聞くのは初めてで、思わず惹き込まれるように藤森さんの話に耳を傾ける。
新聞はこう作られている。
見出しをつけ、紙面の作り方を擬似体験
記者の仕事の紹介が一段落すると、次に藤森さんは学生たちに新聞作りの作業を追体験できるように工夫した課題を出してくれた。
ある科学記事に11文字の主見出し、8文字のサブ見出しを付けさせる。配られたのは、光よりも速い速度でニュートリノが飛んでいることを示す観測結果が出てしまった国際研究施設の報告を報じた記事内容を、文字のみ印刷したものだった。
学生たちはその文章にどのような見出しをつけたか。作業を終えた頃に尋ねると「特殊相対性理論破られる、ニュートリノ、光より早く」「OPERA
相対性理論を破る 光より早く飛ぶニュートリノ発見」等々の解答例が上がった。
ちなみに当日の朝日新聞の見出しは「『光より早い素粒子発見』国際実験 相対性理論と矛盾」。読売新聞は「光より早い素粒子観測 ニュートリノ
相対性理論と矛盾」。東京新聞はやや親しみ易さを意識してか、「えっ光より速い? ニュートリノ 相対性理論と矛盾、検証を」だったそうだ。
次いで、このニュートリノの記事も含めて、同じ日の1面に掲載された4つの記事が印刷された資料を配り、重要だと思う順番に並べる課題が出される。学生たちは、自分の考えた順番を考えて発表した。その後、新聞各紙が、実際に4つの記事をどう配置したのかを例に、藤森さんは、新聞社がニュースの重要性をどのように紙面に配置するのかを説明した。右上トップの「アタマ」に置かれる記事が、一番ニュース性が高いと考えられ、次は左上の「カタ」、そしてその下に...と配置されてゆく。
こうした課題を通じて、新聞がどのようにニュースの位置づけをしているのかを学生に理解させる。学生たちにしてみれば、「新聞を読め」と繰り返し言われ続けて育ったが、どう読んだらいいのかを教えてくれる人は少なかった。それに対して、藤森さんは、どう読めばいいかのヒントを、新聞がどう作られているかに遡って教えてくれた。
どうして新聞記者になったか
恵泉時代に始まる報道への思い
藤森さんは、どうして新聞記者という仕事を選んだのだろう。講義の後に学食で食事をしながら話を聞いてみた。
「大学時代に阪神大震災が起きて。ボランティアには高校生の頃から興味があったので、大学が春休みになってから、兵庫県西宮市の避難所に一ヶ月ぐらい泊まり込んで、支援活動をしました。その時に医療支援と被害を取材する記者の活動を見ていて、将来どちらかの仕事に就きたいと思いました。でも医学の知識は何も無かったので、ひとまず、就職試験では報道の仕事ができるところを選んで受けました」。
実際、卒業後に進んだのはテレビのドキュメンタリー番組制作会社だった。4年半、アシスタントディレクター、ディレクターとしてNHKやテレビ朝日などの報道番組制作に関わった。「働きがいのある仕事だったのですが、新聞への思いが残っていて。仲間が新聞社に中途入社したので、『それなら私も』と思い、中途採用の試験を受けました」。そして朝日新聞に入り、現在に至る。
それでは、更に遡って大学時代の藤森さんはどんな学生だったのか。
「園芸の授業は衝撃的でした。ハイヒールを長靴に履き替えさせられて土いじりですから、『マニュキュアをしてきたのに』と、ブツブツ言っていた記憶があります。でも、普段とは違う視点が持てて、感じるものがあった。最初は嫌々だったけど、だんだん楽しくなりましたね。『白菜ができたから今度持って帰るね』と言うと、母もすごく楽しみにしてくれました」
3年生からは、戦後責任の在り方をテーマとして研究する内海愛子先生のゼミに所属した。
「上野の不法就労者が問題になったら、ゼミ生で出かけて行って当事者に話を聞いて来るとか、ずいぶん実践的な経験をさせてもらった。知らない世界を伝えることや、自分で動くことの面白さは授業で教えてもらいました」。
ゼミの仲間と、遅くまで多摩センター駅前の「サイゼリア」で、熱心に議論したことが今となっては懐かしいと言う。その後、アメリカに留学。「日本とアメリカが、第二次世界大戦中に、それぞれどのようなプロパガンダ活動をしたのか、双方の暗号解読はどこまで進んでいたのかを、アメリカの公文書館と日本側の資料を付きあわせて調査しました」
留学中は勉強だけでなく、様々な異文化体験をして充実していたが、帰ってきてからが大変だった。帰国したのが4年生の夏だったため、教育実習と卒論執筆と就職活動を同時進行させた。その際に教職員が親身になって相談に乗ってくれたことを思い出す。「色々とフレキシブルな対応をしてくれて、本当に助けられましたね。個々の学生と教職員が、それぞれの役割を超えた人間関係を築いてくれる大学でした。今日、久しぶりに母校に戻ってきたけれど、そういう雰囲気は変わらないと感じました。就活とか色々大変なこともあるでしょうが、学生時代には、その時しかできない学生らしい生活を堪能して欲しいです」。
藤森さんからの後輩たちへのメッセージだ。